大統領声明後の日本での混乱した動きは以下の通りである[14]。
8月17日?佐藤首相が閣議後に大蔵省幹部と協議。引き続き市場を開放することに決定。この日も6億ドルの商いであった。首相の指示で柏木雄介顧問を急遽欧米に派遣。柏木顧問はパリでレネップOECD事務総長やフランス政府高官と意見交換した後にワシントン入りして、コナリー、ボルカー、マクラッケン、シュバイツアーIMF専務理事らと協議。
8月21日?佐藤首相に柏木顧問より報告が入る。日記に「どうも円の切り上げはやむを得ないか」と記す。
8月22日?大蔵省は極秘の緊急幹部会を開き、柏木情報も参考に変動相場制を検討したが結論は出ず。
8月26日?大蔵省文書課長が佐藤首相のもとへ、2日後に為替のフロートを最大7%幅で行い、デノミネーションも同時に行う案を打診する。首相はデノミ案は却下する。
8月27日?日銀のドル買いが1日12億ドルに達する。ここまででショック後に約40億ドルを日本銀行は買い入れていた。わずか10日間であった。
8月28日?1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行。初日は約5%上昇。
1950年以降のドル対円の為替レート
スミソニアン体制へ「スミソニアン体制」を参照
変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話[注釈 14] が出ていた。11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12?13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドゥー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。
12月15日に水田蔵相は佐藤首相を訪ね交渉前の最後の打合せを行った。首相は米国がドル切り下げに踏み切ったので「切り上げ巾も大巾でも余り影響混乱はないと思へる」としたが口頭では「然し14%台にとどめ度い」と蔵相に述べている。ただ別には「20%以下ならいい」と聞いたという話もあり、首相はドル切り下げで多少とも切り上げ率が高くなっても影響はないと考えている見方もできる。決着が付いた後の情報が入って「解決した事はとも角一安心」と日記に記している[15]。
1971年12月17?18日、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議[注釈 15] が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った[7]。
その中で日本円は、従前の1ドル=360円から16.88%[注釈 16] 切り上げされ1ドル=308円となった。この日本円の為替レートが決まると他のマルク以下のレートが決まって行った。この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通貨調整をした国は50か国に及んだ[9]。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、ここにきて日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。とはいえ当時の円ドル実勢為替レートを反映した闇ドルレートからすると、従前の1ドル=360円は充分円高であった。
これを受けて、ニクソンショック後の8月28日から始まった変動相場制が、同年12月19日より再び固定相場制に戻り、なおかつ前日よりも円高の308円への切り上げ(ドルから見れば切り下げ)が実施された。しかし佐藤首相は自身の日記に12月21日付けで「水田君が八時半に来る。ほんとにご苦労でしたが苦労甲斐のある仕事で…市場も堅調…為替相場も平穏無事…。下限に近く三百十四円程度…」と述べている。こうしてニクソン大統領は8月15日に大統領が発表した政策の最大の目的であったドルの大幅な切り下げに成功した。
沖縄の通貨交換「B円#第五次通貨交換」も参照
1971年夏から年末までの激動がスミソニアン体制の確立で日本経済は落ち着きを取り戻したが、しかし翌1972年春に3年前の日米首脳会談で決定した沖縄返還の時期を迎え、このニクソンショックによる円とドルの為替レートの変更が沖縄に大きな問題を残すこととなった。1971年8月28日からの変動相場制の移行でドルが流通する沖縄は円の実質切り上げで為替差損が発生し、物価が暴騰した。そこで琉球政府(屋良朝苗主席)は「貿易為替差損補償措置」をとり、ドル建て輸入物価の上昇による業者の超過分を琉球政府が負担することで物価の上昇を抑える施策をとった。しかし結局は物価に跳ね返り高騰を招いた。
そして本土復帰時に流通していた法定通貨であるドルから円への通貨交換を行うこととして、その時点での為替レートを参考に公定レートを決定することとなった。1年前には360円の1%前後の固定相場であったレートが、その後変動相場に移り、前年末に308円の2.25%前後の固定相場になって、実質は沖縄県民にとって差損が生じる事態となり、県民の間には元の360円での通貨交換を望む声が強かった。
そして本土復帰直前の1972年5月12日に日本政府はその直前1週間の円とドルの相場の動き(303円50銭?305円50銭)から沖縄の通貨交換レートを305円に決定した。併せて前年10月8日時点での個人の現金預金について360円との差額を保障する「通貨交換に伴う特別給付金支給要綱」を決めて琉球政府に通達した。
1972年5月15日、沖縄返還に伴う通貨交換が実施され、1ドル305円の交換レートで回収額は1億346万ドル、円支払額は315億円に達した[16][17][18]。しかし308円の固定レートは復帰後1年も続かず、その後変動相場制に戻って沖縄は以降円高に苦しめられる時期が続くこととなった。