ナミビア
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人口密度3.1[2]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)1763億2700万[3]ナミビア・ドル (N$)

GDP(MER
合計(2020年)107億1000万[3]ドル(139位
1人あたり4276.276[3]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)238億3600万[3]ドル(129位
1人あたり9517.285[3]ドル

独立
 - 日付南アフリカ共和国より
1990年3月21日
通貨ナミビア・ドル (N$)(NAD
時間帯UTC+2 (DST:なし)
ISO 3166-1NA / NAM
ccTLD.na
国際電話番号264

ナミビア共和国(ナミビアきょうわこく、英語: Republic of Namibia)、通称ナミビアは、アフリカ南西部に位置する共和制国家である。北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。なお、地図を一見すると接しているように見えるジンバブエとはザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。首都ウィントフックイギリス連邦加盟国のひとつである。

植民地時代の名称は南西アフリカ。ドイツによる植民地支配を経て、第一次世界大戦以後は南アフリカ連邦委任統治下に置かれていたが、第二次世界大戦後の国際連盟解散を機に南アフリカが国際法上違法な併合を行った。南アフリカの統治時代には同様の人種隔離政策(アパルトヘイト)が行われ、バントゥースタン(ホームランド)が置かれた。その後、1966年ナミビア独立戦争が始まり、1990年に独立を達成した。
国名ナミブ砂漠

英語による正式名称は、Republic of Namibia(リパブリク・オヴ・ナミビア)。通称、Namibia [n??m?bi?]

アフリカーンス語表記は、Republiek van Namibie(レピュブリーク・ファン・ナミビエ)。通称、Namibie [na?mibij?]。

ドイツ語表記は、Republik Namibia(レプブリーク・ナミービア)。通称、Namibia [na?mi?bia]。

日本語の表記は、ナミビア共和国。通称、ナミビア。

ドイツによる植民地時代はドイツ領南西アフリカと呼ばれていた。ナミビアという国名は、同国内にある世界最古の砂漠と言われているナミブ砂漠にちなんでつけられた。「ナミブ」は主要民族であるサン人の言葉で、「隠れ家」という意味である(Namibia project(1986) p14)。また、ナマ、ダマラ族の言葉では、「広大な場所(vast place)」を意味する(CIA World Factbook)。なお、「何もない」という意味もあるという説もあるが、英語の「vast」の語源から言われるようになったと考えられる。
歴史詳細は「ナミビアの歴史(英語版)」を参照
古代

現在のナミビアの領域には、もともとはコイサン人コイコイ人 - ナマ人サン人など)が居住していたようである。
バントゥー民族の拡大詳細は「バントゥー民族の拡大(英語版)」を参照

14世紀にはバントゥー系民族の拡大にともない、バントゥー系諸民族が支配するようになっていた。16世紀から17世紀にかけて、ヘレロ人、ダマラ人、オカヴァンゴ人などが定着した。
植民地時代

1840年イギリスケープ植民地との往来のためにウォルビスベイ一帯の領有を開始したが、その他の地域には支配は及ばなかった。ケープ植民地からの圧力を受けて、それまで相互に対立していた現在のナミビアに相当する地域に住む諸民族は、ヨンケル・アフリカネルの指導の下で1858年にワハナス平和条約を結び、共同で外国からの植民地化に立ち向かうことを宣言した。この平和条約の効力は弱かったものの、現在のナミビア民族(nation)形成の端緒として評価されている[4]。「ドイツ領南西アフリカ」も参照ヘレロ戦争(ロシア語版、英語版)中、ドイツ軍によって鎖に繋がれたヘレロ人(1904年)。1907年の戦争終了時、ヘレロ人の80%以上が殺害されていた。

1883年4月にドイツ帝国の商人アドルフ・リューデリッツは部下のハインリヒ・フォーゲルザングをこの地に派遣し、同年5月1日にフォーゲルザングは在地のベタニア人の首長ヨーゼフ・フレデリックスからアングラ・ペクエナの地を購入した。翌1884年にドイツ帝国はウォルビスベイ以外の地域について、このドイツの商人フォーゲルザングがベタニア人の首長フレデリックスから購入した土地を足がかりにドイツ領南西アフリカとして保護領化を宣言した(ドイツ植民地帝国)。ドイツからは弁務官パウル・ロールバッハや、総督テオドール・ロイトヴァン(任:1894年 - 1904年)が南西アフリカに派遣され、以後ドイツによる南西アフリカ人の「文明化の使命」や、商業上の利害に基づいて植民地化を進めた。他方、ナミビアの人々はこのドイツによる植民地化の動きを黙認したわけではなく、1902年には北部のオヴァンボ人の土地のカンボンデ首長はイギリスに手紙を書き、ドイツの植民地化に抵抗することを宣言している。また、白人入植者から土地を奪われたヘレロ人ナマ人も他の諸民族の反植民地運動に同調し、1904年1月にヘレロ人のサミュエル・マハレロ首長に率いられて蜂起した(ヘレロ戦争(ロシア語版、英語版))。この戦争に際してドイツ軍を指揮したフォン・トロッタ司令官は1904年10月2日にヘレロ人を抹殺する旨の宣言を発令し、ナマ人のヘンドリック・ヴィットボーイ率いる反乱に苦戦したあとの1905年4月21日にはナマ人の抹殺も命じている[5]。この戦争は1907年9月にドイツと結んだイギリス軍の兵士によって、反乱の有力指導者であったヤコブ・マレンゴが射殺されたことをもって終結し、戦争によってヘレロ人の80%以上、ナマ人の50%以上が殺害された(ヘレロ人とナマ人のジェノサイド[6]

戦後、ドイツ当局は「部族別居留地」制度を敷いて分割統治策を打ち出し、のちの南アフリカ支配下でのアパルトヘイト政策の先鞭をつけた[7]1910年には、イギリスがウォルビスベイ一帯をドイツに奪われることを防ぐため成立した南アフリカ連邦1961年から南アフリカ共和国)の一部とした。1914年第一次世界大戦が勃発すると、イギリスと交戦状態に入ったドイツはイギリス領ウォルビスベイ一帯を占領した。
南アフリカ委任統治領「南アフリカ領南西アフリカ」も参照

第一次世界大戦は継続し、ドイツによるウォルビスベイ占領の翌1915年には、南アフリカ連邦が南西アフリカ全体を再占領した。


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