ナポレオン
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^ コルシカ語: 「Nabulione Buonaparte」。コルシカ語はイタリア語系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では文語ラテン語がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。
^ 「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄もジョゼフ・ナポレオン(ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。
^ 騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。
^ これはルソーが『社会契約論』の中で、コルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。
^ ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。
^ この頃はまだ准将の扱いだった。(「ルイ=ニコラ・ダヴー」参照。
^ フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。
^ 国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。
^ 当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。
^ この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もある。対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王古代ローマの英雄ユリウス・カエサルになぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉を始めるなどしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、考古学者を165人も同行させていた。このときにロゼッタ・ストーンが発見されたことはよく知られている。
^ 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなる。
^ 1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第一次世界大戦後まで採用されていた。
^ 1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど法制を逐次整備し、1810年頃までには法体系を確立した。
^ 全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。
^ 道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロメートルおきに立てられ、暗号文が伝達された。
^ 1808年にはナポレオン軍は再び教皇領に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県を置いた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。
^ かつて広大な領土を有していたスウェーデン王国は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身はポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。
^ 『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻 テレビ東京
^ ラス・カーズの『セント=ヘレナ覚書』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、潮出版社、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕のルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン(1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。[要検証ノート]
^ 戦略モードと会戦モードの二つがある

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