ナポレオン3世
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またボナパルト家の帝政復古を目指して武装蜂起を策動し、1836年にはストラスブールからフランス軍に蜂起を呼びかけるストラスブール一揆を起こしたが、失敗して逮捕される(→ストラスブール一揆)。この時はアメリカへ国外追放だけで済んだが、フランス国内でナポレオン再評価が高まったのを好機として1840年ブローニュで再び一揆を起こした。やはり失敗して逮捕され、今度は終身刑に処せられた(→ブローニュ一揆)。5年半に及ぶアム要塞(フランス語版)での獄中生活を利用して政治研究に明け暮れ、1844年に著した『貧困の根絶』の中で労働者階級の保護を主張し、貧困層に新たなボナパルティズムをアピールした(→アム要塞服役時代)。1846年の父の危篤に際してアム要塞を脱獄し、ベルギーを経てロンドンへ逃れた(→脱走)。

1848年2月の革命で7月王政が崩壊するとフランスへの帰国を果たし、憲法制定議会議員補欠選挙で当選した(→1848年革命をめぐって、→憲法制定議会の代議士)。12月の大統領選挙にも出馬し、「ナポレオン」の名の高い知名度、豊富な資金力、両王党派(正統王朝派オルレアン派)の消極的な支持などで74%の得票率を得ての当選を果たす(→大統領に当選)。

しかし第二共和政の大統領の権力は弱く、共和派が牛耳る国民議会によって帝政復古は掣肘を受けた。そのため当初は両王党派やカトリックから成る右翼政党秩序党との連携を目指した(→秩序党との連携期)。その一環でローマ共和国によってローマを追われていた教皇の帰還を支援すべくローマ侵攻を行った。これに反発した左翼勢力が蜂起するも鎮圧され、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。代わって秩序党が国民議会の支配的勢力となり、男子普通選挙の骨抜きなど保守的な立法が次々と行われ、ルイ・ナポレオンとの対決姿勢も強めてきた(→ローマ侵攻とその影響、→秩序党の支配)。

国民議会から政治主導権を奪う必要があると判断し、クーデタを計画。軍や警察の取り込みなど準備を慎重に進め、1851年12月にクーデタを決行した。秩序党幹部らを逮捕したのを皮切りに共和主義者にも逮捕の網を広げ、国内反対勢力を一掃した(→クーデターの準備、→「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」)。翌1852年1月には大統領に全権を認めた1852年憲法を制定して独裁体制を樹立する(→1852年憲法と独裁体制の樹立)。さらに同年12月には国民投票のうえで皇帝即位を宣言し、第二帝政を樹立、「ナポレオン3世」と名乗るようになった(→皇帝に即位)。その治世の前期は「権威帝政」と呼ばれる強圧的な統治だったが、1860年代には「自由帝政」と呼ばれる自由主義・議会主義的な統治へと徐々に転換していった(→権威帝政と自由帝政)。

内政面ではサン=シモン主義を背景にした経済政策を行った(→経済政策)。金融改革を起こして産業融資を行う近代的金融業の確立に努めた(→金融改革)。また各国と通商条約を結んで自由貿易の推進にも努めた(→自由貿易)。国土整備も推し進め、ジョルジュ・オスマンパリ改造計画を実施させて道路増設や都市衛生化を推進した(→パリ改造計画)。また金融資本家の鉄道融資を煽ることで鉄道網整備にも尽くした(→鉄道建設)。しかしサン=シモン主義の自由放任主義から社会政策には不熱心だった(→社会保障の不十分)。

外交は、彼の伯父を否定するウィーン体制の改定、ヨーロッパ各国の自由主義ナショナリズム運動の擁護、アフリカアジアに植民地を拡大することを基本方針とした(→外交)。クリミア戦争ではイギリスと同盟してロシアに対して勝利したことでフランスの国際的地位を高めた(→クリミア戦争)。イタリア統一戦争ではサルデーニャとともにオーストリアと戦うも、サルデーニャに独断で早々にオーストリアと休戦協定を結び、以降教皇領の保護にあたるなどイタリア統一にブレーキをかけることでイタリアへの影響力を維持しようとした(→イタリア統一戦争)。非ヨーロッパ諸国に対しては帝国主義政策をもってのぞみ、アフリカやアジアの諸国を次々とフランス植民地に組み込んでいった。その治世下にフランス植民地帝国は領土を3倍に拡張させた。サン=シモン主義の影響からとりわけアジア太平洋地域への進出に力を入れ、アジア諸国に不平等条約を結ばせたり、拒否した時には戦争を仕掛けたり、コーチシナを併合したり、カンボジア保護国化するなど強硬政策をとった(→アジア太平洋地域植民地化)。サハラ砂漠以南の「黒アフリカ」にも植民地を拡大していき、強圧的な植民地統治を行った(→サハラ以南アフリカの統治)。一方アルジェリアでは「アラブ王国」政策と呼ばれる先住民に一定の配慮をした植民地統治をおこなった(→アルジェリア統治)。

ナポレオン3世の権力はこうした外交的成功によって支えられている面が多かったが、メキシコ出兵の失敗で国内的な地位を弱めた(→メキシコ出兵)。さらに小ドイツ主義統一を推し進めるプロイセンと対立を深め、スペイン王位継承問題を利用したプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動により、1870年にプロイセンに対する宣戦布告に追い込まれ、何の準備も出来ていない状態で普仏戦争へ突入する羽目になった(→スペイン王位継承問題)。


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