ナポリ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ティレニア海の一部、ナポリ湾の北岸に位置する都市であり、サレルノから西北西へ46km、ベネヴェントから南西へ53km、首都ローマから南東へ189kmの距離にある[5]。コムーネの面積は117.27 km2に及ぶ[3]ヴェスヴィオ火山は東南東14kmに位置する[5]カプリ島などへフェリー・高速船が通っており、南にソレントアマルフィ海岸が位置する。古代都市ポンペイも見える距離にある。最高地点は450m。
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。



ポッツオーリ - 西

クアルト - 西

マラーノ・ディ・ナーポリ - 北西

ムニャーノ・ディ・ナーポリ - 北西

メリート・ディ・ナーポリ - 北西

カザンドリーノ - 北

アルツァーノ - 北


カザヴァトーレ - 北

カゾーリア - 北

ヴォッラ - 北東

チェルコラ - 東

サン・セバスティアーノ・アル・ヴェズーヴィオ - 東

サン・ジョルジョ・ア・クレマーノ - 南東

ポルティチ - 南東


気候

気候はケッペンの気候区分地中海性気候 (Csa) と温暖湿潤気候 (Cfa) の中間で、夏は暑くやや乾燥し、冬は寒く湿度がある。平均最高気温は5?10月が最高20?30℃、11月?4月が20?13℃。

ナポリの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)13.0
(55.4)13.5
(56.3)15.7
(60.3)18.1
(64.6)23.0
(73.4)26.7
(80.1)29.9
(85.8)30.3
(86.5)26.9
(80.4)22.1
(71.8)17.1
(62.8)14.1
(57.4)20.8
(69.4)
日平均気温 °C (°F)8.7
(47.7)8.8
(47.8)11.1
(52)13.2
(55.8)17.8
(64)21.4
(70.5)24.3
(75.7)24.7
(76.5)21.4
(70.5)17.1
(62.8)12.4
(54.3)9.8
(49.6)15.9
(60.6)
平均最低気温 °C (°F)4.4
(39.9)4.5
(40.1)6.3
(43.3)8.4
(47.1)12.6
(54.7)16.2
(61.2)18.8
(65.8)19.1
(66.4)16.0
(60.8)12.1
(53.8)7.8
(46)5.6
(42.1)11.0
(51.8)
降水量 mm (inch)104.4
(4.11)97.9
(3.854)85.7
(3.374)75.5
(2.972)49.6
(1.953)34.1
(1.343)24.3
(0.957)41.6
(1.638)80.3
(3.161)129.7
(5.106)162.1
(6.382)121.4
(4.78)1,006.6
(39.63)
平均降水日数 (?1.0 mm)9.99.89.58.85.74.02.33.85.88.110.810.789.2
平均月間日照時間114.7127.6158.1189.0244.9279.0313.1294.5234.0189.1126.0105.42,375.4
出典:World Meteorological Organization[6]

歴史

ウンベルト1世のガッレリア
19世紀の建築で、高さ58mのガラス天井を備えるナポリの街並みとナポリ湾セバスチァーノ通りナポリ大聖堂ヌォーヴォ城 13世紀の建築卵城

ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり[要出典]、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあったが、476年西ローマ帝国滅亡後、南イタリアは東ゴート族ランゴバルド族の支配が及ぶなど流動的な状況となった。6世紀になると、東ローマ帝国ユスティニアヌス1世がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島はラヴェンナを首府とする東ローマ帝国の属州となった。ナポリ市には660年に東ローマ系の公国が設置されている。

11世紀にはノルマン人が南イタリアに到来し、イスラム教徒が支配するシチリア島を征服してシチリア王国オートヴィル朝)を建国するが、ノルマン人の支配は南イタリアでも拡大され、ナポリ公国も1140年ノルマン人の手に落ちた。12世紀にはシチリア王国は婚姻関係によってホーエンシュタウフェン家神聖ローマ皇帝の支配に移った。1224年には異色の皇帝フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)がナポリ大学を設立した。

フランスの王族シャルル・ダンジューによりホーエンシュタウフェン家のシチリア支配が断絶すると、ローマ教皇クレメンス4世1266年、シチリア王国をシャルル・ダンジューにあてがい、アンジュー家は王国の首都をパレルモからナポリに遷都した。しかし1284年シチリアの晩鐘事件を契機にシチリア島で反乱が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを占領するが、ナポリを中心とする南イタリアはアンジュー家が依然として押さえていたので、王国は2つに分割された。2つの王国は共に「シチリア王国」を公称していたが、この時にナポリ王国が成立したと見ることができる。

トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世はシチリア王を兼ねていたが、内紛続きのナポリ王国を征服して、1443年にナポリ入りし、2つの「シチリア王国」の王を兼ねた。アルフォンソはアラゴン王であるにもかかわらず、ナポリに長く滞在して統治した。1458年のアルフォンソの死後は私生児のドン・フェランテがフェルディナンド1世としてナポリ王位のみを継承するが、失地回復をめざすフランス・ヴァロワ朝シャルル8世がこれにつけ込んで、1494年にナポリを武力占領した。これに対してスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)から派遣されたコルドバ将軍は、1503年にナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ王家は取り潰され、スペインのナポリ総督によって支配される属州となった。

スペイン継承戦争1701年 - 1714年)のさなか、1707年にオーストリア・ハプスブルク家の軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ポーランド継承戦争が起こると、フランス・ブルボン家スペイン・ブルボン家の支援を求め、1734年にスペイン王子でもあるパルマ公ドン・カルロスがナポリに入城してナポリ王カルロ7世として即位、シチリアも回復した。カルロスは1759年にスペイン王カルロス3世として即位した際、ナポリ王位を息子のフェルディナンド4世に譲った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef