ナポリ
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(47.7)8.8
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平均最低気温 °C (°F)4.4
(39.9)4.5
(40.1)6.3
(43.3)8.4
(47.1)12.6
(54.7)16.2
(61.2)18.8
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(66.4)16.0
(60.8)12.1
(53.8)7.8
(46)5.6
(42.1)11.0
(51.8)
降水量 mm (inch)104.4
(4.11)97.9
(3.854)85.7
(3.374)75.5
(2.972)49.6
(1.953)34.1
(1.343)24.3
(0.957)41.6
(1.638)80.3
(3.161)129.7
(5.106)162.1
(6.382)121.4
(4.78)1,006.6
(39.63)
平均降水日数 (?1.0 mm)9.99.89.58.85.74.02.33.85.88.110.810.789.2
平均月間日照時間114.7127.6158.1189.0244.9279.0313.1294.5234.0189.1126.0105.42,375.4
出典:World Meteorological Organization[6]

歴史

ウンベルト1世のガッレリア
19世紀の建築で、高さ58mのガラス天井を備えるナポリの街並みとナポリ湾セバスチァーノ通りナポリ大聖堂ヌォーヴォ城 13世紀の建築卵城

ナポリ市は、紀元前6世紀古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり[要出典]、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあったが、476年西ローマ帝国滅亡後、南イタリアは東ゴート族ランゴバルド族の支配が及ぶなど流動的な状況となった。6世紀になると、東ローマ帝国ユスティニアヌス1世がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島はラヴェンナを首府とする東ローマ帝国の属州となった。ナポリ市には660年に東ローマ系の公国が設置されている。

11世紀にはノルマン人が南イタリアに到来し、イスラム教徒が支配するシチリア島を征服してシチリア王国オートヴィル朝)を建国するが、ノルマン人の支配は南イタリアでも拡大され、ナポリ公国も1140年ノルマン人の手に落ちた。12世紀にはシチリア王国は婚姻関係によってホーエンシュタウフェン家神聖ローマ皇帝の支配に移った。1224年には異色の皇帝フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)がナポリ大学を設立した。

フランスの王族シャルル・ダンジューによりホーエンシュタウフェン家のシチリア支配が断絶すると、ローマ教皇クレメンス4世1266年、シチリア王国をシャルル・ダンジューにあてがい、アンジュー家は王国の首都をパレルモからナポリに遷都した。しかし1284年シチリアの晩鐘事件を契機にシチリア島で反乱が起こると、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを占領するが、ナポリを中心とする南イタリアはアンジュー家が依然として押さえていたので、王国は2つに分割された。2つの王国は共に「シチリア王国」を公称していたが、この時にナポリ王国が成立したと見ることができる。

トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世はシチリア王を兼ねていたが、内紛続きのナポリ王国を征服して、1443年にナポリ入りし、2つの「シチリア王国」の王を兼ねた。アルフォンソはアラゴン王であるにもかかわらず、ナポリに長く滞在して統治した。1458年のアルフォンソの死後は私生児のドン・フェランテがフェルディナンド1世としてナポリ王位のみを継承するが、失地回復をめざすフランス・ヴァロワ朝シャルル8世がこれにつけ込んで、1494年にナポリを武力占領した。これに対してスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)から派遣されたコルドバ将軍は、1503年にナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ王家は取り潰され、スペインのナポリ総督によって支配される属州となった。

スペイン継承戦争1701年 - 1714年)のさなか、1707年にオーストリア・ハプスブルク家の軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ポーランド継承戦争が起こると、フランス・ブルボン家スペイン・ブルボン家の支援を求め、1734年にスペイン王子でもあるパルマ公ドン・カルロスがナポリに入城してナポリ王カルロ7世として即位、シチリアも回復した。カルロスは1759年にスペイン王カルロス3世として即位した際、ナポリ王位を息子のフェルディナンド4世に譲った。この1734年をもって両シチリア王国の成立とする見方もある。ただこの時は正式名称としては使用されなかった。

ナポレオン戦争の間、ナポリ王フェルディナンドはナポリから追放され、シチリアを領有するのみとなった。ナポリは1806年から1815年にかけてナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ、次いで妹婿のミュラを王に戴くことになる。1816年にフェルディナンドがナポリとシチリアの王として返り咲くと、間もなく国名を正式に両シチリア王国とした。1860年、両シチリア王国はジュゼッペ・ガリバルディに征服され、翌1861年に成立するイタリア王国に併合された。

第二次世界大戦中、イタリアの敗色が濃厚となる1943年9月9日頃、イギリス軍がナポリに上陸作戦を敢行。上陸を阻止しようとするドイツ軍との間で激しい交戦が行われた[7]。同年10月1日までにドイツ軍は撤退し、連合国軍がナポリに進駐した[8]

1995年世界遺産(文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録された。
社会
社会問題

古くから過密が社会問題になっている。

イタリア以外の外国人が想像する輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、この都市が元になっている。その一方で、今日でもナポリを拠点とするマフィアカモッラによる影響が強い都市である。
ごみ問題

2007年以降、ナポリではごみの増大に処理場の増設(1994年以降、数回造成されている[9])が追いつかず、街中に未回収のごみが散乱する状態が度々起こっている[10]

ごみが散乱する理由として、マフィアによるごみの不法投棄が挙げられる。1980年代からマフィアがナポリにイタリア北部から運んできた産業廃棄物を埋め始め、この頃からマフィアにとってごみ関連ビジネスが麻薬密売に次ぐ収入源となった。環境アナリストによると、違法ごみビジネスによって、マフィアは年間25億ユーロにも上る収益を得ているという[11][12]
健康被害

イタリアの研究機関による調査で、ナポリ近郊では他の地域と比べてガンの発生率が上昇していることが判明した。


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