ナポリ王国
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スペイン系ブルボン家のナポリ・シチリア王国詳細は「シチリア・ブルボン朝」を参照カゼルタ宮殿

ポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)中の1734年、スペイン・ブルボン家の王子ドン・カルロス(のちスペイン王カルロス3世)がオーストリアを破り、シチリアとナポリを占領[2][1]。1735年にドン・カルロスがシチリア王・ナポリ王に即位した(ナポリ王としてはカルロ7世。在位:1735年 - 1759年)[1]。このことは最終的に1738年にウィーン条約で承認された[2]。これにより2つのシチリア王国が再び1人の王を戴くこととなった。事実上の両シチリア王国の成立と見なされるが、国制上ナポリ王国とシチリア王国は別個の存在のままであった[2]

1759年、カルロ7世はスペイン王に即位するが、この際シチリアとナポリの王位を三男のフェルディナンド(ナポリ王としてはフェルディナンド4世、在位:1759年 - 1806年、1815年 - 1816年)に譲った。

カゼルタ宮殿サン・レウチョの邸宅群ヴァンヴィテッリの水道橋の建設は、カルロ7世の治世において開始され、フェルディナンドの時代に完成を見た(これらは世界遺産に登録されている)。このほか、カルロ7世の時代にはナポリのサン・カルロ劇場カポディモンテ美術館も建てられた。

フランス革命の影響とナポレオンによるイタリア占領はナポリ王国にも及んだ。ナポリのブルボン朝政府は第二次対仏大同盟に参加したが、ナポレオンのイタリア侵攻を受けて政府はシチリアに亡命した[1]1799年、ナポリ王国に代わってパルテノペア共和国が建てられたが、短命に終わり、ブルボン朝が復帰した[1]。ナポリ王国は第三次対仏大同盟にも参加したが、1806年にナポレオンによって征服され[1]、ブルボン朝は再びシチリアに逃れた[1]
ナポレオン帝国下のナポリ王国ナポレオン侵略後のイタリア(1812年) 濃い緑色の部分はフランス帝国の領土、図中央上部の緑色の部分はチザルピーナ共和国を1805年に改称し1814年まで継続したイタリア王国(1861年成立のイタリア王国とは無関係)、ナポリ王国(シアン色)の名も見えるが、支配者はナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトを引き継いだナポレオンの義弟ジョアシャン・ミュラであった(1815年まで在位)

1806年の征服以後1815年まで、ナポリ王国は「ナポレオン帝国」の衛星国となった (Kingdom of Naples (Napoleonic)) 。この時代の王の称号も公称は「両シチリア王」であるが、シチリア島はブルボン家の支配が続き、ナポレオン帝国の支配が及んだのはイタリア半島南部のみであった。

ナポレオンは当初兄のジョゼフ・ボナパルトをナポリ王に据えた(ジュゼッペ1世)が、1808年にスペイン王に転じた[1]

代わってナポレオンの義弟にあたるジョアシャン・ミュラがナポリ王ジョアッキーノ1世となった[1]。ミュラ(イタリア語ではムラト)の王国はムラッティアーナ Murattiana (「ミュラ王朝」というほどの意味)とも言われる)。

フランスによる支配の下で、ナポリ王国では封建制度の廃止が宣言され[2]、近代化が促進された[1]

ボナパルト朝ナポリ王国の旗。ロマーニ共和国の国旗をモチーフにしたもの。

国旗は数年後に変更された。前の国旗を基調としたデザインに、南イタリア領を表す黒馬とシチリア島を表すトリスケルトリナクリア)が中央に描かれている。

ブルボン家の復帰と両シチリア王国への移行

ナポレオンの失脚後のウィーン会議によって、1815年にブルボン家が復帰した。

翌1816年にナポリとシチリアの両王国は正式に統合され、両国の王であったフェルディナンドが「両シチリア王フェルディナンド1世」として即位した。以後、両シチリア王国イタリア統一戦争まで続くことになった。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ アラゴン王兼シチリア王であり、カスティーリャ共治王。1479年のカスティーリャ=アラゴン連合王国の成立をもって「スペイン王国」の成立とされる。

出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p 重岡保郎. “ナポリ王国”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k “ナポリ王国”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。
^ a b “ナポリ王国”. 百科事典マイペディア(コトバンク所収). 2018年5月16日閲覧。

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ナポリ王国に関連するカテゴリがあります。

ナポリ・アンジュー朝


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