ナバラ県
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ナバラ州の自治体の人口順位(2013年)[13]
#人口自治体地域
1196,955パンプローナ中部
235,369トゥデラ南部(河岸部)
321,120バラニャイン中部(パンプローナ都市圏)
418,414バリェ・デ・エグエス/エグエシバル中部(パンプローナ都市圏)
518,248ブルラーダ/ブルラタ中部(パンプローナ都市圏)
614,120シスール・マジョール/シスル・ナグシア中部(パンプローナ都市圏)
713,947エステーリャ南部(河岸部)
811,201タファリャ南部(河岸部)

1900年時点のナバラ地方の人口はスペイン全体の1.7%だったが、20世紀を通じて緩やかに比率を低下させた結果、1991年時点では1.3%となった[14]。ナバラ州より人口が少ない自治州はラ・リオハ州カンタブリア州だけであり、ナバラ州の人口はスペインの全17自治州中15位である。1900年の人口は307,669人だったが、2014年には約2倍の640,356人となった[13]。人口密度は1900年の29人/km2から2014年には61.4人/km2に増加したが、スペイン平均の人口密度92人/km2を下回っている[13]。ピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している[12]。2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加しており[12]、他国出身人口は約70,000人[13]、比率では約11%と推定されている[15]


ナバラ州の人口推移 1900?2001

出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[16]、1996年 - [17]

歴史
先史時代・古代古代ローマの影響を示す硬貨

ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[18]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物ドルメンメンヒルストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている[19]

その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した[20]。紀元前133年のヌマンティア(英語版)の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した[21]。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり[22][23]、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル(スペイン語版)など、アラゴン川アルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった[22]。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている[24]
ナバラ王国ナバラ王国の最大版図(1030年)「ナバラ王国」も参照

主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する[25]。サンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。

西ゴート族フランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した[26][27]「ナバラ王国の心臓」と称えられたレイレ修道院

905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された[28]。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した[2]。10世紀半ばにはレオン王国、アラバ領主、カスティーリャ王国などと婚姻関係を結んでいる[29]。10世紀末にはサンチョ2世(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒ(英語版)に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後のアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ(英語版)が生まれている[30]。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった[31]

1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした[32][26][33]ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[34]、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった[2]。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ[33][2]


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