ナバラ県
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出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[16]、1996年 - [17]

歴史
先史時代・古代古代ローマの影響を示す硬貨

ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前 - 11,000年前)のものである[18]。北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物ドルメンメンヒルストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている[19]

その後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した[20]。紀元前133年のヌマンティア(英語版)の攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した[21]。ポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり[22][23]、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。東部のサングエサやルンビエル(スペイン語版)など、アラゴン川アルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった[22]。ローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている[24]
ナバラ王国ナバラ王国の最大版図(1030年)「ナバラ王国」も参照

主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する[25]。サンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。ナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。

西ゴート族フランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した[26][27]「ナバラ王国の心臓」と称えられたレイレ修道院

905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された[28]。耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した[2]。10世紀半ばにはレオン王国、アラバ領主、カスティーリャ王国などと婚姻関係を結んでいる[29]。10世紀末にはサンチョ2世(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒ(英語版)に与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後のアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロ(英語版)が生まれている[30]。パンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった[31]

1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした[32][26][33]ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[34]、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった[2]。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ[33][2]。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である[33]

1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった[35]。サンチョ3世の長子であるガルシア3世はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている[36]。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、ハカエステーリャなどの町が成長した[36]ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが[37]、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている[36]。イベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した[35]。ナバラ王国時代にはイスラーム美術が持ち込まれ、トゥデラのモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている[19]ナバラ博物館に所蔵されているイスラーム時代の象牙箱

12世紀末にはカスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王アルフォンソ2世が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた[38]


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