ナバラ県
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ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり[39]、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした[38]。1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した[40][41]。この戦いはレコンキスタ(再征服運動)における転換点であり、ムワッヒド朝の衰退の決定的な要因となっている[42]

1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まった[43][44]。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した[45]。テオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害した[38]ため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。そのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補をコルテス(身分制議会)が拒んだこともあった[45]。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された[45]。ナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後もムデハル(再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身のベンヤミンは初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している[38]現在のオリテ市街地と王宮(奥)

1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが[38]、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)はフアナ2世をナバラ王に選出した[38]。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった[46]。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った[46]。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた[46]。フアナ2世を継いだカルロス2世の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた[47]。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され[46]、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した[47]

1418年にはカルロス3世オリテにオリテ王宮(スペイン語版)を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた[48]。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した[49][50]。1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼ領有していたので、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた[51]
スペイン王国の中の王国フランシスコ・ザビエルが育ったハビエル城

1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し[52][53]、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された[54]。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ[55]。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している[14]

ナバラ王位にあったカタリナフアン3世ピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。ピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。ナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。フランス側のナヴァール王国は1620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで独自の制度と権限を有していた[56]

17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった[57]。スペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ[57]。17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。この世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった[57]

1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた[58]。スペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており[59]、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された[60]第一次カルリスタ戦争中のメンディゴリアの戦い

18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた[61]。1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した[62]。農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった[62]。18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた[62]。18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった[63]

フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者[誰?]はナバラ、スペイン・バスクフランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した[64]


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