ナバラ県
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ピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した[34]、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった[2]。サンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ[33][2]。レコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である[33]

1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった[35]。サンチョ3世の長子であるガルシア3世はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている[36]。1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、ハカエステーリャなどの町が成長した[36]ガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが[37]、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている[36]。イベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した[35]。ナバラ王国時代にはイスラーム美術が持ち込まれ、トゥデラのモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ(英語版)修道院の象牙細工の小箱などが残っている[19]ナバラ博物館に所蔵されているイスラーム時代の象牙箱

12世紀末にはカスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王アルフォンソ2世が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた[38]。ナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり[39]、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした[38]。1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した[40][41]。この戦いはレコンキスタ(再征服運動)における転換点であり、ムワッヒド朝の衰退の決定的な要因となっている[42]

1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まった[43][44]。国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した[45]。テオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害した[38]ため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。そのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補をコルテス(身分制議会)が拒んだこともあった[45]。ナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された[45]。ナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後もムデハル(再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身のベンヤミンは初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している[38]現在のオリテ市街地と王宮(奥)

1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが[38]、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)はフアナ2世をナバラ王に選出した[38]。フアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった[46]。1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った[46]。これらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた[46]。フアナ2世を継いだカルロス2世の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた[47]。1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され[46]、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した[47]

1418年にはカルロス3世オリテにオリテ王宮(スペイン語版)を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた[48]。1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した[49][50]。1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼ領有していたので、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた[51]
スペイン王国の中の王国フランシスコ・ザビエルが育ったハビエル城

1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し[52][53]、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された[54]。ナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ[55]。1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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