ナツメグ
[Wikipedia|▼Menu]
イタリア料理では、ナツメグはトルテリーニのような多くの地方の肉詰めダンプリング(団子)や伝統的なミートローフの一部として使われる。ナツメグはパンプキンパイ、焼いたドングリカボチャ(英語版)といったその他の冬カボチャ(英語版)のためのレシピにおける一般的な香辛料である。カリブでは、ナツメグはブッシュワッカー、ペインキラー(英語版)、バルバドスラムパンチといった飲料にしばしば使われる。典型的には、飲料の上部に振り掛ける。
果実

果皮はジャムを作るために使われたり、あるいは薄く切って、砂糖と調理し、結晶化させて香りの良い飴にする。薄く切ったナツメグ果実の果肉からはインドネシアの manisan というデザートが作られる。これは、風味を加えたシロップ浸け、あるいは manisan pala と呼ばれる砂糖で覆われた乾燥したものである。ペナン料理(英語版)では、乾燥して細く刻んで砂糖をまぶしたナツメグの皮がペナン独特のアイスカチャンのトッピングとして使われる。また、氷で冷やしたナツメグジュースを作るために、ナツメグの皮を混ぜ合わせたり(新鮮で青いピリッとした味の白色のジュースになる)茹でたり(より甘く茶色のジュースになる)する。インド・ケーララ州のマラバル地方では、ナツメグはジュースや野菜ジャム、チャツネを作るために使われる[10]
料理以外の利用

種子は肉荳?と呼ばれる生薬であり、収斂止瀉、健胃作用がある。東洋医学では、気管支炎リウマチ胃腸炎などのとして処方される。

お香

1191年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世[1165年?1197年]がローマで戴冠したときには、戴冠式前の数日間、街の通りでナツメグなどのスパイスが焚かれたという。[11]

性差別

16世紀にはナツメグが性差別の表現として利用されることがあった。オランダの医者で「自然の隠された力 Nature`s Secret Powers」を著したレビィナス・レムニウスは、男性の選んだナツメグは大きく、みずみずしく、色も香りもいいのに対して、女性の選んだナツメグはしなびて、干からびて、黒ずみ、薄汚れて、醜いと主張して、女性に対する男性の優位を称えたという。[11]
精油

粉末にしたナツメグの水蒸気蒸留によって得られる精油[12]香水のほか製薬に使われる。揮発性画分は多数のテルペンおよびフェニルプロパノイドを含有し、これらにはd-ピネンリモネン、d-ボルネオール、l-テルピネオールゲラニオールサフロールミリスチシンが含まれる[12][13][14]。純粋なミリスチシンは毒素であり、過剰量のナツメグの摂取はミリスチシン中毒を引き起こしうる[15]

精油は無色または淡黄色で、ナツメグの香りと味がする。焼き菓子やシロップ、飲料、甘い食べ物の天然香料として使われる。食品中に粒子が残らないため、ナツメグ粉末を置き換えるために使われる。精油は歯磨剤咳止めシロップの製造にも使われる[16]
ナツメグバター

ナツメグバターはナッツを圧搾して得られる半固形の赤みがかった茶色の油脂で、ナツメグ自身の味と香りを持つ[12]。ナツメグバターのおよそ75%(重量比)がトリミリスチン(炭素数14の飽和脂肪酸ミリスチン酸トリグリセリド)である。トリミリスチンはココアバターの代用品として使うことができ、綿実油パーム油などの他の油と混合することができ、工業用潤滑油としての用途がある。
歴史バンダ諸島の地図

ナツメグが使われた最古の例は、およそ3500年前のインドネシアのアイ島(Palau Ai)で見つかっており、これは陶器のつぼの破片(英語版)上で見出された残留物に基づいている[17][18]

19世紀までは、古代の人々はナツメグの存在を知らなかった、という説が一般的だったが、20世紀古代エジプト副葬品の中にニクズクのかけらが発見された。しかし、他の文明でもこれといった痕跡はなく、一般に利用されてはいなかったと見られている。6世紀にアラビア人によってコンスタンティノープルに「インドのくるみ」(nux indica)という産物が伝来していた記録があり、それがナツメグを指すという説もあるが、ビンロウジココヤシの実の可能性もあり確定はできていない[19]

ナツメグが記録に現れ始めるのは10世紀頃の事で、地理学者マスウーディーによってマレー諸島東部の産品として報告され、11世紀初め頃にはペルシアの知識人イブン・スィーナーによって医学的な考察がなされている。ヨーロッパで記録に現れ始めるのは12世紀末頃からだが、当時はナツメグよりメースの需要の方が高く、イギリスではメース約500グラムに羊3頭分の価値があった。

19世紀中頃まで、バンダ諸島の小さな島々がナツメグとメースの世界で唯一の生産地であった。バンダ諸島はインドネシアの東部、マルク州に位置する。バンダ諸島は、ネイラ島(英語版)、グヌン・アピ島(英語版)、バンダ・ベサル島(英語版)、ラン島、アイ島、ハッタ島、ジャールーリ島、カラカ島、マヌカン島、ナイラカ島、バトゥ・カバル島と呼ばれる11の小さな火山島からなり、総陸地面積は8,150ヘクタールである[20]

ナツメグは、ヨーロッパの中世料理において風味付け、医薬、保存料として極めて貴重で高価な香辛料として知られている。ストゥディオスのテオドロス(英語版)(758年頃?826年)は、修道士たちがエンドウ豆のプディング(英語版)にナツメグを振り掛けるのを許した。エリザベス朝時代において、ナツメグは疫病を寄せ付けないと信じられていたため、需要は増大し、価格は急騰した。

ナツメグはバスラの港からのムスリム船員ら(『千夜一夜物語』に登場する架空の人物船乗りシンドバードを含む)にとって貴重な商品であった。ナツメグは中世の間はアラブ人によって取り引きされ、ヴェネツィア人に高値で売られていたが、交易商人らはインド洋交易(英語版)において儲けの大きい品物について産地の正確な位置を漏らさなかったので、ヨーロッパ人はその位置を推定することができなかった。

香辛料貿易を支配するため、バンダ諸島はアジアにおけるヨーロッパの最古の冒険的事業の舞台となった。1511年8月、アフォンソ・デ・アルブケルケポルトガル王の代理として当時アジア交易の拠点であったムラカを征服した。同年の11月、ムラカの安全を確保し、バンダの位置を知った後、アルブケルケはバンダ諸島を見つけ出すために友人のアントニオ・デ・アブレウが率いる3船の遠征隊を送った。募集あるいは強制的に徴集されたマレー人水先案内人らが彼らをジャワ島小スンダ列島アンボン島を経てバンダ諸島へと導き、1512年諸島に到着した。バンダ諸島の到達した初めてのヨーロッパ人である遠征隊はおよそ1か月滞在し、バンダのナツメグ、メース、そしてバンダが活発な中継貿易を行っていたクローブを購入して船いっぱいに積み込んだ。バンダ諸島の初期の説明は、1512年から1515年までムラカに滞在したポルトガル人薬剤師トメ・ピレス(英語版)の著作『東方諸国記(ポルトガル語版)』中にある。ポルトガル人によるこの交易の完全な支配は不可能であり、彼らはバンダ諸島に足場を置かない参加者であり続けた。16世紀を通じてナツメグ取引きの中心はリスボンだった。

ナツメグの生産と交易を独占するために、オランダ東インド会社(VOC)は1612年にバンダ人と血みどろの争いを行った。歴史家ウィラード・A・ハンナは、この争いの前はバンダ諸島の人口は約1万5千人であったのに、戦いの後はわずか千人だった(バンダ人は殺されるか、逃亡中に餓死するか、亡命するか、奴隷として売られた)と見積った[21]。オランダ東インド会社は17世紀の間にバンダ諸島に広範囲のナツメグプランテーションを建設した。これは香辛料生産のためのナツメグプランテーション、香辛料の防衛のためのいくつかの砦(英語版)、交易と統治のための植民地都市が含まれた。オランダは独占維持のために、ニッケイチョウジと同様に管理下以外の島々の木を切り倒して回る徹底した制限政策をとった。1768年、フランスの植物学者ピエール・ポワブルは密かにナツメグの苗をモーリシャス諸島に移植し、オランダの独占を打破した。しかしながら、オランダ人はこの地域の唯一の占有者ではなかった。イギリス人はラン島の村の指導者らと巧みに交渉し、彼らのナツメグを独占するのと交換にオランダ人から彼らを保護した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef