ナチ党党大会
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この説明から、党大会の目的がとりわけ次の点にあったことが確認できる。すなわち、党員に「勝利の確信」を植えつけ、彼らを再び「運動の指導者」と結びつけることである。同じ演説でヒトラーが述べるように「この教化において心理的にもっとも効果的な手段は、偉大で強力な運動への参加を目に見えるように実演すること」であり「従って、我々の大集会は新たな支持者の獲得だけでなく、とりわけ既に獲得された人々の固定化と道徳的強化に役立ったのである[2]

党大会が何よりも党組織の問題だったことは、大会の運営を党の全国組織指導部(Reichsorganisationsleitung)が担ったことに示されている。 この部局は、全国組織指導者(Reichsorganisationsleiter)でドイツ労働戦線指導者でもあるロベルト・ライのもと「全国党大会の組織的な準備と開催」に独占的な権限をもち、ライの代理で全国総監のルドルフ・シュメーアが組織本部で実務を取り仕切った。 もっとも、党最大の行事なので重要な決定はヒトラー自身が下し、運営にあたっては党の最高幹部で総統代理(副総統)のルドルフ・ヘスや、ニュルンベルク市当局の協力も必要だった。 会場の設営に関しては、アルベルト・シュペーアが責任者となり、全国党大会目的連合が施設の計画と建設を担った。 さらに宣伝大臣全国宣伝指導者ヨーゼフ・ゲッベルスや、フランケン大管区指導者ユリウス・シュトライヒャーといった党の領袖もそれぞれ関係する範囲で干渉したため、党大会の運営は極めて錯綜した様相を呈することになった。

大会のプログラムは、党組織の構造を反映したものとなっていた。

1日目をヒトラー到着の日、2日目を党会議の日とすれば、3日目は国家労働奉仕団(RAD)に、4日目は党政治指導者に、5日目はヒトラー・ユーゲント、6日目は突撃隊(SA)と親衛隊(SS)に、7日目は国防軍にそれぞれ割り当てられた。

1937年以降は4日目にマスゲーム競技を行う「共同体の日」が挿入され、大会期間も8日間に延長されたが基本的なプログラムに変更はなかった。しかもまた、各組織には決められた集会場が指定され、ルイトポルト競技場はSAとSSに、ツェッペリン広場は党政治指導者とRADに、スタジアムはヒトラー・ユーゲントにそれぞれ割り当てられた。 いずれの組織も別個に集会を行い、全体が一堂に会することはなく、そこには 「独立王国」 の寄せ集めともいうべき党組織の性格が反映していたといえる。 これらを束ねる役割をはたしたのが、あらゆる大集会で演壇に立った 「総統」 であり、彼に忠誠を誓うことではじめて各組織は「民族共同体」の一翼を担うことができたのである。

この関連で注目されるのは、党大会がしばしばヒトラーに党内対立を調停する機会を与えたことである。 たとえば1934年の大会における彼の文化政策に関する演説は、ゲッベルスとアルフレート・ローゼンベルクの調停をはかるものだった。 もっともこれによって両者の対立はむしろ激化し、カリスマ派閥主義が規定しあうというナチス・ドイツの権力構造は、党大会にもあらわれていたということができる。

党大会の主役はもちろん「総統」であり、大会がたえず彼を中心に展開したことは言うまでもない。レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』にいたっては、ヒトラーの登場シーンが映画全体の約3分の1に達し、彼の演説は音声全体の5分の1、演説全体の3分の2以上を占めていた[3]

党大会の意義の1つは「総統」であるヒトラーを間近に見る機会を提供することで、彼と参加者の間にこうした「個人的な関係」を築くことにあった。

会場の設営自体、ヒトラーと大衆との関係を表現していた。 ルイトポルト競技場であれ、ツェッペリン広場であれ、大衆集会が挙行される会場には必ず「総統」の立つ舞台があり、正面スタンドの中央に一段高く設定された彼の演壇が会場全体の焦点をなしていた。 ヒトラーはつねに壇上から群衆を見下ろしていたのであり、両者はたしかに垂直の関係にあった。 演壇の高さはヒトラーの権力を象徴しており「総統は命じ、我々は従う」という「指導者原理」の権威主義的秩序をあらわしていた。 しかし、会場の設営に垂直性のみを見出だすのは片手落ちというべきである。というのも、高さを強調するだけなら宮殿バルコニーのような隔絶された場所に立つ方がはるかに効果的だからである。 ヒトラーはむしろ現代のロック・スターと同様に、ステージの上で群衆と直に向き合っていたので、彼はまさに「水平的理想化」によってつくりだされた偶像だった[4]1934年党大会。ルイトポルトハイン内の戦没者記念堂前のテラスに、アドルフ・ヒトラー、SSリーダーのハインリヒ・ヒムラー、SAリーダーのヴィクトール・ルッツェが立つ。正面奥にあるのは「名誉の演壇」

何十万もの人間を収容するこの広大な会場は、全体としてフラットな印象を与え、四方を取り囲む石造のスタンドも基本的に水平性を強調していた。また正面スタンドには演壇よりも高い位置に貴賓席が設置されていたので、演壇の高さも絶対的なものとは言えなかった。さらに観客は、正面の巨大な党旗のポールを上下するカメラを通して、ヒトラーよりもはるかに高い位置から会場を俯瞰することができた。その映像には、会場の構成原理がはっきりと示されている。ルイトポルト競技場の中央に広い通路があけられ、その両側に数十万人のSA隊員とSS隊員が整列するなかで「総統の道」と呼ばれたこの通路の一端にヒトラーの立つ演壇が、もう一端に彼がSA、SSの指導者(ヴィクトール・ルッツェハインリヒ・ヒムラー)を従えて献花をささげる霊廟が設定され、これを軸にシンメトリーが形成されていた。「総統」はその支点に位置する重要な構成要素として、全体のなかに統合されていたのであり、1人超然と立っていたわけではなかった。

1934年の大会の閉会式で総統代理のヘスが述べた 「党はヒトラーであり、ヒトラーはしかしドイツである。ドイツがヒトラーであるように!」 という有名な言葉もこうした文脈で理解する必要があるだろう。会場を埋めつくす党員たちは、ヒトラーを核に結束することでドイツの一体性を具現したのだった。こうした総統と大衆の融合は、大衆が主体としての自己意識を獲得するための一段階と見ることができる。

こうした編成のなかで大衆は、自己の理想的な主体の焦点を自己自身の外にもつことになり[5]、そして、ヒトラーという 「最良の自己」 を通して美化された自分自身の姿こそ「民族共同体」に他ならない。『意志の勝利』の観客もまた、総統の視線で大衆を俯瞰する映像を通じ、自らの一体性を認識したのである。

大衆の一体性は、彼らを取り囲む巨大な建造物によってさらに高められた。1937年の大会でヒトラーは、この点を次のように説明している。それはわが国民を政治的にこれまで以上に統一・強化するのに役立つし、社会的にもドイツ人にとって誇りある共属感の要素となり、この我が共同体の強力かつ巨大な証人に比べて、その他の世俗的な相違が取るに足らないものであることを社会的に証明するだろう[6]

党大会の施設はその圧倒的な大きさによって、これらに向き合う人々の身分階級の違いを無意味にし、彼らを「民族共同体」に統合するのに役立つというのである。ツェッペリン広場(ツェッペリンフェルト)シュペーアが設計したツェッペリン広場の大観客席。中央演壇部分

なかでもツェッペリン広場の正面スタンドは長さが390m、高さが24mあり、広場自体も幅が312m、奥行が290mに達し、全体で約24万人を収容することができた。しかも、この広場は四方を取り囲むスタンドや周囲に林立する党旗によって外部から閉めきられ、内部の一体性が高められていた。特に夜間の集会では、周囲の150基のサーチライトが上空を照らし、会場全体を包み込む『光のドーム』が出現した。ある新聞報道が伝えるように「ここでは運動の祈祷時間が催され、光の海によって外の暗闇から守られている」のだった[7]

イギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン(英語版)によれば、それは 「まるで氷の神殿のなかにいるかのように荘厳かつ華麗だった[8]」。シュペーアはこれを「シュールレアリスム的非現実感」と呼び「それは私のもっとも美しい空間創造であっただけでなく、時代をこえて生き残った唯一の空間創造でもあった」と自画自賛している[8]。ともあれ、こうした空間創造によって外部との間に境界が設定され「民族共同体」の舞台が出現することになった。会場に集まった数十万の人々は、この壮大な舞台の観客であると同時に出演者でもあり、そうした二重性のもとで「民族共同体」が実演されることになる。

「民族共同体」は何よりも整然とした直線的な空間構成によって表現された。その構成原理は「個々の要素の標準化、参加者の画一化、あるいは基本的な建築体をできるかぎり純粋な形態、しばしば立方体に還元すること」にあった。特にツェッペリン広場は会場そのものが方形をなしていたばかりでなく、会場を取り囲む建造物も立方体を単位として直線的に構成された。石造の正面スタンドは演壇を中心に左右に連なる列柱と階段の水平性やブロックを積み上げたような簡素で堅固な量塊性などによって、古典主義的な様式美のなかに力強さや重々しさを表現しており、設計者のシュペーアによれば「これはいうまでもなくペルガモン神殿の影響を受けていた[9]」。更に、会場を埋めつくす群衆も密集して強固なブロックを形成し、整然たる秩序のもとに配列されていた。 新聞報道によれば「正方形のツェッペリン広場は20本のまっすぐな柱によって分割され、これらの柱には14万人の政治指導者が12列に整列していた」。ヴァルター・ベンヤミンが述べるように「ファシズムが強靱と見なすモニュメントの素材は何よりもいわゆる人的資源である[10]」。ここには人間を建築資材に見立てる視点「人的資源」によって「民族共同体」を建設しようという意図があったといえる。たとえば1934年の大会で演説したヒトラーは、足下を指さしながら「党はこのブロックと同様に確固としている!」と断言しており、ゲッベルスもまた「政治家とは大衆という『素材』から『民族の堅固で明確な形態』をつくり上げる芸術家である」と説いていた。


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