ナチ党党大会会場
[Wikipedia|▼Menu]
議会ホール(Kongresshalle)は、現存する中で最大の国家社会主義記念碑的建造物で、ランドマークとなっている。ニュルンベルクの建築家ルートヴィッヒ・ルフとフランツ・ルフにより設計された。自立型の屋根を備えたナチ党の会議場として機能することを目的としており、50,000議席を有する予定だった。位置はドゥツェントタイヒ池のほとりで、党大会会場の入口を示していた。建物は高さ39メートル(128フィート)(高さ70メートルが計画されていた)、直径250メートル(820フィート)に達する。建物の大部分は、表面に花崗岩パネルを貼った硬質煉瓦で構築されている。デザイン(特に外のファサードなど)は、ローマコロッセオから着想を得ている。基礎石は1935年に敷設されたが、建物は未完成となり、屋根も設置されないままだった。「U」の輪郭の建物は、2つの本館を建てたのみで工事を終えた。北翼には、2001年に設置された帝国党大会会場文書センター(ドイツ語版)が配置されている[6]。南の建物は、ニュルンベルク交響楽団の本拠地であるSerenadenhof(ゼレナーデンホーフ、セレナーデの館)となっている。

議会ホールの航空写真(2009年)

議会ホール正面

議会ホール、拱廊を持つ廊下

議会ホール北翼にある帝国党大会会場文書センター

帝国党大会会場文書センター。「硝子と鋼鉄の矢」の形状で北翼を貫通している[6]


議会ホール

議会ホール中庭(2008年)

大通り(Grose Strase)「大通り(背後は議会ホール)

「大通り」(Grose Strase)は長さ2キロ(1.2マイル)幅40メートル(130フィート)の通りで、敷地の中心とドイツ国防軍のパレード道路とすることを意図していた。

北西の先にはニュルンベルク城があり、これには第三帝国時代のニュルンベルクの役割と、中世とのニュルンベルクとの役割を重ね合わせる意図があった。

議会ホールからメルツ広場に至る道路の工事は1935年に開始され、1939年に終了した。最後の大会は1938年に開催されたが、第二次世界大戦の開催により、この道路がパレード道路として使用されたことはなかった。舗装には黒と灰色の花崗岩が用いられ、四辺は正確に1.2メートル(3.9フィート)であった。

北西の端には代表的な正門と2つの塔門が計画されていた。また、「ドイツ・スタジアム」の入口附近には、柱のホールを備えた観客席が、メルツ広場の方向に行軍するドイツ国防軍の隊列に敬意を表するために計画された。

戦後、「大通り」は米軍の一時的な飛行場として使用され、最近では近隣のニュルンベルク見本市や展示会の会社による見本市の、臨時駐車場として使用されている。
ツェッペリン広場(Zeppelinfeld)

ツェッペリン広場(Zeppelinfeld)は、「大通り」の東に位置する。幅360メートル(390ヤード)の大きな観客席 (Zeppelinhaupttribune) と、小さな観客席とで構成されている。ナチス党のためのアルベルト・シュペーアの作品の一つであり、ペルガモンの大祭壇を基にして設計された。正方形の支柱は、フランス系アメリカ人の建築家ポール・フィリップ・クレット(Paul Philippe Cret)の作品の影響を受けている[7]。観客席上部に造られたハーケンクロイツのモニュメントは、ドイツの降伏後に連合軍により爆破され、その際撮影された映像は広く知られている。"Zeppelinfeld"ないしは"Zeppelinwiese"という名称は、1909年8月に、フェルディナント・フォン・ツェッペリンが彼の飛行船(LZ6)の一つでこの地に着陸したことに由来する。

1947年から1995年まで、DoDDS(国防総省士官学校)の施設であるニュルンベルクアメリカ高校(Nurnberg American High School)は、高校サッカーとアメリカンフットボールの練習に兵士広場(Soldiers Field と呼ばれる)を使用した。1967年に、市当局により観客席の二列の列柱は爆破され、残存する建築物に深刻な損害を与えた[8]。観客席の残りの部分は無傷で、ノリスリンクモーターレーシングトラックの中心として利用される。1980年代には、ヘヴィメタルロック・フェスティバルであるモンスターズ・オブ・ロックが2回開催され、2004年からは大規模ロック・フェスティバルのロック・イム・パルクの会場ともなっている。また、アメリカンフットボールチームのニュルンベルク・ラムズ(Nurnberg Rams)によっても使用されている。敷地の別の部分にはキャンプ場がある。長年放置されていたことや、建築の質の悪さにより、侵食と湿気による損傷は深刻化していた。2019年には、8,500万ユーロを掛けて観客席の残存する部分を保存し、訪問者が近付けるようにする計画が発表された。完工目標は2025年である[8]

ツェッペリン広場(1938年頃)

ツェッペリン広場、メインの演壇(2004年12月)

1935年党大会の風景。大観客席はまだ完成していなかったため、演壇の後ろに木製の鷲の像が仮設されている

ツェッペリン広場(2004年12月)

1945年、敗戦後にハーケンクロイツが爆破された際の映像

1936年の党大会における演出、「光の大聖堂(Lichtdom)」

1937年の党大会、国家労働奉仕団の召集

1938年

ツェッペリン広場の空撮(2021年)

大観客席のパノラマ(2018年)

大観客席の残存部分(2009年)

ドイツ・スタジアム(Deutsches Stadion)

アルベルト・シュペーアは、「世界首都ゲルマニア」の計画に加えて、党大会会場に世界最大のスタジアムを建設する計画を立てた。これはアテネパナシナイコスタジアムに倣い[9]、馬蹄形のスタジアムに400,000座席を設置することとなった。計画された寸法は、長さ800メートル、幅450メートル、高さ100メートル、建築面積350,000平方メートル。

基礎石は1937年7月9日に敷設され、1945年の党会議に間に合わせる予定で工事が開始された。1938年に工事は開鑿から開始され、1939年に停止されたが、戦争中、鋳込ピットは地下水が浸入しないようにしておく必要があった。しかし戦後、ピットの北半分は水で満たされ、現在では Silbersee(銀の湖)と呼ばれている。南半分は破壊されたニュルンベルクの街の瓦礫を堆積させるために使用された。
メルツ広場(Marzfeld)

メルツ広場(Marzfeld)の名称はローマ神話における戦の神マールス(Mars)に由来するとともに、ドイツで徴兵制が復活した1935年の3月(Marz)を連想させるもので、ドイツ国防軍のパレード会場となっていた。

場所は「大通り」(Grose Strase)の南端で、広さは955メートル×610メートル(1,044ヤード×667ヤード) あり、サッカーフィールド80面分以上あった。この巨大な配備区域の名称は、1935年3月のドイツ国軍事主権の回復を想起させるものだった。

ローマ神話における戦の神、マールスに由来するMarzfeldという広場は、ローマにも存在しており(カンプス・マルティウス)、パリシャン・ド・マルス公園は、このカンプス・マルティウスに由来している。

建設が完了することはなかったが、1938年にそれぞれ高さ約40メートル(130フィート)の花崗岩の塔を24基建設する計画で開始された。完成したのは内11基で、1966年に取り壊された。広場の周囲には160,000人を収容する観覧席が、その中央には勝利と戦士を司る女神たちの、巨大な群像が計画されていた。

現在ではこの場所は住宅地となっており、党大会期間中に仮設宿泊施設の場所として使用されていたその南部の地区にまで繋がっている。
KdF街(KdF-Stadt)

党大会会場の北東には「KdF街」(KdF-Stadt)が建設された。木造の展示ホールでは地域の製品が紹介され、党会議期間中には遊戯行事が開催された。ナチ党の組織「歓喜力行団」(KdF)が、空き時間に労働者の相手をした。
関連項目


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef