ナチ党の権力掌握
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1936年にナチス政権がラインラントを再武装化するまで、ヴェルサイユ体制とよばれる国際秩序が形成された[3]

また軍備が制限されたために、大量の軍人が失職を余儀なくされ、失業者や武装組織「ドイツ義勇軍(フライコール)」のメンバーとなり、社会の不安定要因となった。彼らと国軍に残留した者の間では、「ユダヤ人に唆された共産主義者ドイツ革命を起こしてドイツ帝国に敗北をもたらした」とする陰謀論、「背後の一突き(匕首伝説)」が流布していった。ドイツ軍を指揮したパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥、戦時中実権を持ったエーリヒ・ルーデンドルフ陸軍大将、マクス・パウエル大佐、フォン・ヴリスベルク将軍も匕首伝説が事実であったと証言し、大戦の敗戦責任はユダヤ人と共産主義者ら左翼にあるとした[4][5]。また、ロシア革命ウクライナから逃亡してきたピョートル・シャベルスキー=ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は、ユダヤ人の国際陰謀について書かれた『シオン賢者の議定書』をドイツ福音教会の神学者ミュラー・フォン・ハウゼン[注 4]に手渡し、1920年にミュラーは仮名[注 5]でドイツ語訳を出版し12万部を売った[5][6]。ミュラーは、ユダヤ問題の解決のためには、ユダヤ人を閉じ込めるしかないと主張して、外国籍ユダヤ人の入国禁止、ドイツ人学校への入学禁止、金融業の国有化、ユダヤ人が経営する商店へのダビデの星の掲示義務化、ドイツ名の名乗り禁止、ユダヤ人団体の禁止などを列挙し、のちのニュルンベルク法などのような、ユダヤ人条例(Juden Ordnung)を提案し[5]、違反したユダヤ人は死刑と主張した[7]。全ドイツ連盟のクラースはこのユダヤ人条例案を支持した[7]

一方で、コミンテルン指揮下に置かれたドイツ共産党は再度の革命を目指し、勢力を拡大しつつあった。また、国会は安定多数を獲得する政党が最後まで出現せず、議会に基礎を置く首相の指導は不安定であった。またドイツ帝国以前からの伝統を持つ各州の独立傾向は強く、中央政府の権力は掣肘された。

1920年3月13日に軍の縮小とドイツ義勇軍の解散に反発したカップ一揆が発生し、国家人民党、ドイツ国民党、経済界は新政府を支持した[8]。これに対して社会民主党独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟ゼネストを行い、さらに左翼復員のルール赤軍によるルール蜂起が発生したことで、カップは退陣した[8]。ルール蜂起も国軍によって鎮圧された[8]

1921年1月、賠償額交渉で総額2,260億マルクという莫大な賠償金が課せられたため、ドイツ全土は激しい怒りに満ちた[注 6]。ドイツ政府は修正を要求したが、連合国は拒否してライン地方を占領し、圧力をかけた[8]。1921年5月のロンドン会議で総額1,320億マルクへと修正され、ドイツが拒否する場合はルール地方を占領するという最後通牒を通達した[8]中央党コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した[8]。1921年10月、連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこには鉱工業が集中していたため、ドイツは反発した[8]。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった[9]

このような状況のなか、1921年アドルフ・ヒトラーがナチ党の指導者[注 7]となって以降、同党は拡大を続けた。ヒトラーには魔力的とも評される演説の魅力があり、また党による演出と宣伝もそれを大きくさせた[10]
ルール占領とハイパーインフレーションフランス軍によるルール占領

1923年1月11日フランスベルギーが木材賠償の支払いが遅れているという理由でルールを占領した[11]。ドイツ国民は社民党からドイツ国家人民党まで怒りが広がり、反フランスの「国民統一戦線」が成立した[8][11]。ヒトラーは同日、フランスに占領された責任はマルクス主義民主主義議会主義国際主義の背後にいるユダヤ人にあると演説した[11]。3月31日にはフランス軍の銃撃でクルップ社の13人の労働者が死亡し、41人が負傷した[11]。フランスとドイツの交渉が膠着したことでルール地方を事実上失ったドイツは石炭を外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方の企業支援のために通貨を無制限に発行し、5月には1ドル=15000マルク、11月には1ドル=4兆2000億マルクと下落し、ハイパーインフレーションが進行し、貨幣マルクはパピエルマルク(紙くずマルク)と呼ばれた[9][12]

1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府がルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態を宣言し戒厳令が敷かれ、フォン・カールを州総監に任命して全権を委任した[12][13]シュトレーゼマン中央政府も大統領緊急令で対抗したが、バイエルンはバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命し、バイエルンは独立国家の様相を呈した[12]。ただし、カールはナチ党を抑えようとしたため、ナチ党は反発を強めた[13]。さらにライン地方も中央政府からの分離運動を開始し、共産党・コミンテルンも中央政府をファシズムとして批判した[12]


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