ナチ党の権力掌握
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ヒトラーは獄中で『我が闘争』を執筆、1925年から1926年にかけて出版し、「全能の造物主の精神において」「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言した[15]。ヒトラーによれば、「寄生的存在であるユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主の民族を消滅させる[16]。ユダヤ人は平等と労働者の条件の改善を主張しているが、その目的はユダヤ人以外のすべての民族を奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川にニグロを連れてくるなどあらゆる手段を用いて混血による退化をもたらし白色人種を滅ぼそうとしている[16]。人類のプロメテウスであり、輝く額から神々しい天才のひらめきによって文化を創造したアーリア人が絶滅すれば地上は深い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろう」と述べた[16]

1925年2月、禁止処分が解除されたためナチ党が再結成され、新規約では「ドイツ国民の最大の敵はユダヤ人とマルクス主義」とされた[17]。2月27日の党集会は盛会となった[17]。27年までナチは公の場での意見表明は禁じられたが、1926年7月のヴァイマル党大会では演説が許可され、親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし、推定8000人の参加者は熱烈にヒトラーを歓迎した[17]
低迷期

エーベルト大統領が死去したため行われた1925年の大統領選挙では、与党ヴァイマル連合(社民党・中央党・民主党)は中央党のヴィルヘルム・マルクスを、一方、国家人民党ら右派は戦時英雄ヒンデンブルクを担ぎ、後者が勝利した[12]。ヒンデンブルクは当初穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであった[12]。ヒンデンブルクは1925年末ロカルノ条約を締結し、国際連盟への加盟を実現させ、これによりヨーロッパの国際政治は安定したが、ソ連はロカルノ体制を警戒した[12]

当時、ナチ党は低迷期に入っていた。1927年、第四次マルクス内閣は失業保険制度など失業政策を実現させた[12]。1927年3月にナチ党はバイエルンで演説禁止が解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力は伸びなかった[18]。1927年の内務省報告でも、ナチ党は影響力がないとみなされていた[17]

ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙では、ナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり[17]、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した[12]。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた[17]
世界恐慌の時代
テューリンゲン州議会選挙

1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。

1929年12月のテューリンゲン州[19]議会選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相のポストを獲得した[20]1930年にはテューリンゲン州政府にナチ党幹部のヴィルヘルム・フリックが内務大臣として入閣した。フリックは全権委任法バウハウスの閉校、警察組織制度改革などナチ党の思想に基づく政策を実行し、テューリンゲン州はナチ党政策の「実験場」となった[21]

国の中央政府(ライヒ政府)であったブリューニング内閣ヨーゼフ・ヴィルト内務大臣はナチ党の合法性を疑い、州政府から警察に出される補助金を打ち切ったが、これはライヒ政府とテューリンゲン州の訴訟に発展した。この訴訟においてはナチ党が非合法活動を行っている政党であるかどうかが争点となったが、ヒトラーは1930年9月20日に行われた「ウルム国軍訴訟」の法廷で「こうした高揚を代表する運動は、しかしながら、非合法な手段によっては準備されないのである」という「合法誓約」を行って党の合法性をアピールした[22]。また国防省がナチ党員である事を理由に職員を解雇したことは違法であると判決が下ったこともあり、ライヒ政府のテューリンゲン州への介入は違憲である可能性が高まった。こうした事で不利を察知したライヒ政府は和解に動き、12月30日にテューリンゲン州が和解に同意した。この和解によってナチ党の違法判断は行われる事が無く、ナチ党は完全な合法政党として扱われるようになった[23]

ナチ党の得票数の変化選挙日得票数得票率当選数
1928年5月20日810,0002.6%12人
1930年9月14日6,410,00018.3%107人
1932年7月31日13,750,00037.3%230人
1932年11月6日11,740,00033.1%196人
1933年3月5日17,280,00043.9%288人
1933年11月12日39,655,28892.2%661人

1930年の国会選挙

1929年の世界恐慌はドイツの経済に壊滅的な打撃を与え、この事態はドイツ政府への支持を一気に失わせた。1930年3月20日ドイツ社会民主党ヘルマン・ミュラー首相が辞職すると、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党ハインリヒ・ブリューニングを指名した。ブリューニングは社会民主党の協力を得て大連立による議会運営を目指したが、社会民主党を嫌っていたヒンデンブルクの意向やドイツ人民党との連携を嫌った社会民主党側の拒絶もあり、少数連立による議会運営を余儀なくされた。従来の内閣は議会勢力の支持を受けた結果、大統領に任命されるという形式が執られていたが、ブリューニング以降の首相任命においてはこれらの手続きはとられなかった。これ以降の内閣は国会を基礎とせず、ただ大統領の信任のみに基づく内閣であったため、大統領内閣と呼ばれる。

1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた[12]。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した[24]

1930年9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった[25]。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした[25]

選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった[25]。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った[25]


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