ナチ党の権力掌握
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1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた[12]。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した[24]

1930年9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった[25]。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした[25]

選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった[25]。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った[25]

与党の国家人民党と人民党の議席が激減し、ブリューニング首相の政権運営はさらに苦しくなった。ブリューニングはドイツ社会民主党の協力を得たが、議会運営は困難であった。このためヒンデンブルク大統領に議会の議決を必要としない大統領令を発出させることで政権運営を行った。1931年には大統領緊急令の数が国会採択を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[26]。しかし社会民主党に反感を持っていたヒンデンブルクは、次第にブリューニングへの信頼を失い、息子で陸軍大佐のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領官房長のオットー・マイスナー国軍の実力者である国防次官クルト・フォン・シュライヒャーらといった側近グループを重用し始めた。
オーストリアとの関税同盟

1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した[24]。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった[24]。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフランスはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した[27]。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた[24]。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった[24]労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた[24]

シュライヒャーはナチ党の協力を得ることが円滑な政権運営を可能にすると考え、ヒトラーを取り込もうとした。1931年10月14日、シュライヒャーの仲介でヒトラーははじめてヒンデンブルク大統領と会談した。ヒトラーは政府への協力を確約せず、さらに元帥(ヒンデンブルク)の威厳に落ち着きを失ったこともあり、相互に悪印象を与えるだけの会談となった。ヒンデンブルクはヒトラーの長広舌にうんざりして「首相の器ではなく、せいぜい郵政大臣どまり」[28]と評している。10月21日、ナチ党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともにハルツブルク戦線を結成してブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。
1932年ドイツ大統領選挙からブリューニング内閣崩壊へヒンデンブルク大統領の応援演説を行うブリューニングヒンデンブルクとヒトラーの選挙広告(1932年3月)

1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持するとヒンデンブルクに交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した[29]

ヒトラーは当初「自分は首相になるつもりだ。大統領の柄ではないし、大統領にはならないことも知っている」[注 8][30]と大統領選挙出馬を否定していたが、選挙公示の15日前に出馬を決めた。出馬しなければ支持者を失うことをおそれての立候補だった[29]

ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した[29]

選挙終了間もない1932年4月13日の州議会選挙では、ブリューニング首相と国防相ヴィルヘルム・グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられた[29]。グレーナー国防相がブリューニング首相と大統領に要請しての大統領令だった。左翼の準軍事組織が適用外であったので、ナチスは当局は偏っていると批判した[29]。シュライヒャーもこの措置に反発し、ヒンデンブルク大統領を説いて社会民主党の国旗団も同様に禁止させるべきであるという大統領書簡を発表させた。重大な問題を起こしていない国旗団を解散させることは出来ず、グレーナーはシュライヒャーの辞職要求を受けて辞任した。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト自由州においてナチ党は第一党となった[29]

さらにブリューニング内閣が打ち出した東部(東プロイセン)農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、政権は末期状態となった。

国防相グレーナー配下のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による独裁体制を樹立することを目指し、ヒンデンブルク大統領側近という立場から政権中枢でブリューニング倒閣運動を展開した[29]5月8日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、突撃隊・親衛隊の禁止令を解除すること、新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。

国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍はグレーナーに軍の支持は失ったと告げたことで、1932年5月12日にグレーナーは辞任した[29]。5月29日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングも辞任した[29]。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約束された[29]

5月30日にブリューニング内閣は総辞職した。
パーペン内閣パーペンとシュライヒャー(1932年)

続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペン首相就任を打診し、さらにナチ党以外の政党からの影響を受けないような閣僚リストも作成したうえでパーペン内閣が1932年6月1日に成立した[29]。パーペン内閣には貴族出身者が多く『男爵内閣』と呼ばれた。シュライヒャーは国防相となった。パーペンは中央党の党員であったが、ブリューニングを裏切る形で後継首相となったことで中央党から離脱せざるを得なかった。このためパーペン内閣の与党は存在しなくなった。ヒトラーはパーペンに面会した際に「あなたの内閣は一時的な措置である」と述べた[29]


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