ナチ党の権力掌握
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中央党コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した[8]。1921年10月、連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこには鉱工業が集中していたため、ドイツは反発した[8]。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった[9]

このような状況のなか、1921年アドルフ・ヒトラーがナチ党の指導者[注 7]となって以降、同党は拡大を続けた。ヒトラーには魔力的とも評される演説の魅力があり、また党による演出と宣伝もそれを大きくさせた[10]
ルール占領とハイパーインフレーションフランス軍によるルール占領

1923年1月11日フランスベルギーが木材賠償の支払いが遅れているという理由でルールを占領した[11]。ドイツ国民は社民党からドイツ国家人民党まで怒りが広がり、反フランスの「国民統一戦線」が成立した[8][11]。ヒトラーは同日、フランスに占領された責任はマルクス主義民主主義議会主義国際主義の背後にいるユダヤ人にあると演説した[11]。3月31日にはフランス軍の銃撃でクルップ社の13人の労働者が死亡し、41人が負傷した[11]。フランスとドイツの交渉が膠着したことでルール地方を事実上失ったドイツは石炭を外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方の企業支援のために通貨を無制限に発行し、5月には1ドル=15000マルク、11月には1ドル=4兆2000億マルクと下落し、ハイパーインフレーションが進行し、貨幣マルクはパピエルマルク(紙くずマルク)と呼ばれた[9][12]

1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府がルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態を宣言し戒厳令が敷かれ、フォン・カールを州総監に任命して全権を委任した[12][13]シュトレーゼマン中央政府も大統領緊急令で対抗したが、バイエルンはバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命し、バイエルンは独立国家の様相を呈した[12]。ただし、カールはナチ党を抑えようとしたため、ナチ党は反発を強めた[13]。さらにライン地方も中央政府からの分離運動を開始し、共産党・コミンテルンも中央政府をファシズムとして批判した[12]

コミンテルンはドイツ共産党に武装革命を指示し、共産党は1923年10月23日にハンブルクで武装蜂起して党員24人と警官17人が死亡、ザクセンでは軍とデモ隊の衝突で23人の死者、31人の負傷者が出て、鎮圧され、各州で共産党は非合法化された[12][13]。共産党による反乱に対して、ナチ党は自分たちも行動しなければナチ党支持者が共産党に転向することを恐れた[13]
ミュンヘン一揆

バイエルン首相カール・警察長官ザイサー・バイエルン軍司令官ロッソウの三巨頭は、ナチ党とルーデンドルフを外してベルリンでナショナリスト独裁政府を樹立する計画を持っていた[13]。1923年11月初頭、ザイサーがベルリンで陸軍最高司令官ゼークトとクーデター計画の交渉をするが、ゼークトは拒絶した[13]。これに対してナチ党とルーデンドルフを中心とした闘争連盟(Kampfbund)もベルリンへの進軍を計画した[13]。ヒトラーは11月6日カールが会合に現れなかったため、クーデターを決心、11月8日カールの集会に武装したナチ党が乱入し、ヒトラーは聴衆に向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣、カールは州摂政に任命し、「ベルリンのユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府の樹立を宣言した[13]。ヒトラーは「今夜、ドイツ革命がはじまる」と宣言し、群衆は賛同の声にどよめいた[13]。しかし、バイエルン軍も州警察も一揆に協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦がはじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆は一日で鎮圧された[12][13]。ナチ党は禁止されたが、三巨頭も権力と信頼を失い、翌年に失脚した[13]

ヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ、公務員40万人を解雇するなど大幅な予算削減を行った[12]

ナチ党、ルーデンドルフ、オーバーラント団、国旗団は1923年に首都ベルリンに進軍するためバイエルン州政府を掌握しようとクーデターを起こした。このミュンヘン一揆による権力掌握は失敗したものの、ヒトラーとナチ党の存在はドイツ国内外に広く知れ渡った。ナチ党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。一方で党の半武装組織突撃隊は共産党の赤色戦線戦士同盟などと激しく衝突し、死者を出すことも珍しくなかった。また政治活動が禁じられていた内部にも浸透を図った。しかしこの過程で党員の将校が党細胞を組織しようとしたとして、反逆罪で訴追される事態が発生した。これはウルム国軍訴訟(ドイツ語版)と呼ばれ、ナチ党の合法性をも問う訴訟となった。

ミュンヘン一揆を起こしたルーデンドルフは無罪放免になったあと、1924年国家社会主義自由運動の国会議員となり、1925年ドイツ大統領選挙に出馬したが得票数最低で落選した[14]

1924年1月、ドイツ経済の破壊なしに賠償支払いを円滑にするドーズ案が出され、8月に連合国とドイツは了承した[12]。国際環境の好転によって12月総選挙ではナチ党も共産党も後退した[12]。しかし、国内では右翼、左翼の準軍事組織の結成が相次いだ。1924年2月、社民党系の「黒赤金国旗団」が310万を擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟が結成され10万の勢力となった[12]。ナチ党の突撃隊、鉄兜団、ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した[12]。1924年4月のバイエルン州選挙、および5月の国会選挙で民族ブロックが第一党となった[13]


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