ナチ党の権力掌握
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またヒトラーは自身を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診し、シュライヒャー将軍はヒトラーの要求をヒンデンブルク大統領に伝えたが、大統領は拒絶した[29]。ヒンデンブルクはこの時にはヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていた。

8月5日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、副首相の地位を提示した。しかしヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求した。シュライヒャーはヒンデンブルクとヒトラーを会見させることのみ約束した。

8月13日、ヒトラーはベルリンを訪れシュライヒャー、パーペンと相次いで会談した。シュライヒャーとパーペンはヒトラーに副首相としての入閣を提案したが、ヒトラーは受け入れなかった[29]

その日の午後3時、ヒンデンブルクとヒトラーの会談が始まった。ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクは拒否し、突撃隊によるテロへの警告を行うとともに、パーペン内閣への協力を求めた。ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には最大限厳しく対応すると回答し、ヒトラーは自制心を保ったが怒りで爆発寸前だった[29]。ヒトラーは退出後には自分を『屈辱的な会談』に引っ張り出したパーペンを激しく罵った。すっかり気落ちしたヒトラーは副首相の地位でも良いかと弱気になったが、パーペンがこの会見の模様を新聞にリークしたことで激怒した。憤激した突撃隊が直接行動に出ようとする動きもあったが、突撃隊には2週間の休暇が与えられることで沈静化した。この新聞発表にはナチ党を引き入れようとしたシュライヒャーも当惑し、パーペンを見限って新政権を建てることを計画し始めた。

折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された[31]。ナチ党は「血の判決」だとパーペン政権を非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた[31]。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されるだろうと論じていた[31]
パーペン内閣崩壊ベルリン市電ストライキ。バリケードで線路を封鎖している

新国会が開催されると、ナチ党は中央党の協力を得てヘルマン・ゲーリングを国会議長に選出した。国会は当初はスムーズに展開していた。しかし、9月12日の本会議で共産党議員エルンスト・トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した[31]

すでにパーペンは8月30日時点でヒンデンブルク大統領から解散命令を受け取っていたが未提出のままだった[31]。パーペンは大急ぎで国会解散の大統領令を出すことで不信任案の採決を阻止しようとしたが、ゲーリングは無視して不信任案の採決を行った。採決は賛成512、反対42の圧倒的多数で不信任案が可決され、パーペン内閣を信任したのはドイツ国家人民党とドイツ人民党だけだった[31]。同時に解散命令も発効し、次回選挙は11月6日に定められた[31]

前回の選挙で資金を使い果たしたナチ党にとっては厳しい選挙戦となった[31]。大多数のメディアはナチ党に敵対的であったし、ナチ党はラジオの利用も許されなかった[31]。選挙期間中、ナチ党は保守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働者のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中産階級の間で広まった[31]。新聞もナチ党を共産党扱いし、共産党を警戒する財界人は援助を引き上げた。

1932年11月ドイツ国会選挙でナチ党は第一党は確保したが、前回比200万票を減らし議席数も230から196に減った[31]。支持を伸ばしたのは共産党とドイツ国家人民党だった[31]。共産党が着実に議席を伸ばしていることが保守派の警戒心をあおった。

パーペンはナチ党を含む各党に協力を求めたが、拒否された。パーペンは辞任の意向を伝えたが、ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜい(ヒトラーのこと)にビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」[注 9]とヒトラーを拒否した。それから2回ヒンデンブルクとヒトラーの会談が行われたが、またしても交渉は物別れに終わった。このようにヒンデンブルク大統領は変わらずヒトラーを嫌い、ヒトラーもヒンデンブルクを軽蔑していたが、大統領の後ろ盾を得ずに権力を掌握することは不可能であった[31]

この間にヒトラーを首相にするようにという請願書が多数大統領の下に送付された。特に11月19日ライヒスバンク元総裁ヒャルマル・シャハト、合同製鋼(ドイツ語版)社長フリッツ・ティッセンヴィルヘルム・クーノ元首相ら「ケップラー・グループ(ドイツ語版)」の政財界人が連名で送った請願書は有名である (Industrielleneingabe)[注 10]

1932年12月1日、ヒンデンブルク・シュライヒャー・パーペンの三者会談を行った。パーペンは議会の機能停止と軍隊による治安維持を提案した。シュライヒャーはパーペンの代わりに自分が首相になり、社会民主党やナチ党の一部を切り崩すことで事態を沈静化すると提案した。パーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間は自分が首相として留まると主張したが、これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は苦難の道を選びたり[注 11]」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけ[注 12]、ここにいたって二人の関係は完全に破綻した。

ヒンデンブルクはパーペンに組閣を依頼したが、シュライヒャーは非常事態を宣言して憲法違反を犯す計画がなされてしまえば内戦になることは避けられないし、ストライキと混乱が起きると軍は国境を防衛できないと忠告した[31]。翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチ党が浸透しているため、強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表した[注 13]。この結果を受けてヒンデンブルクも「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、不承不承ながらシュライヒャーを首相に任命した[31]。ヒンデンブルクはパーペンを気に入っており、辞任の際も握手して落涙し、「私には一人の戦友がいた」と書かれた写真を贈った[33]。この後、パーペンはヒンデンブルクの側近となった。
シュライヒャー内閣
ナチ党分裂の危機グレゴール・シュトラッサー

12月3日、シュライヒャーは正式に首相に就任した。

シュライヒャーはヒトラーに協力を求めたが拒絶されたため、ヒトラーの右腕で現実的穏健派だったグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診した[34]。ヒトラーが指導者原理の強硬路線でパーペン内閣への入閣を拒絶したのに対して、シュトラッサーは首相ポスト以外であっても入閣すべきであると考えており、当時党内の幹部では唯一の反対意見を述べるなどナチ党の組織を現実的に再編した穏健派とみなされていた[34]。またシュトラッサーは労働組合にも融和的であった[34]

シュトラッサーは党の資金力がこれ以上の選挙に耐えられないと考えており、この提案を党に持ち帰ることを了承した。しかし12月5日にホテル・カイザーホーフで開かれた幹部会でこの提案を披露したところ、かつての部下であるゲッベルスをはじめとする幹部からヒトラーを裏切ったと猛反発を受けた。ヒトラーもシュトラッサーを猛批判し、ショックを受けたシュトラッサーは12月7日に党の役職をすべて辞任し、翌日ミュンヘンに帰った。この時、シュトラッサーは次のような言葉を残している。今後ドイツの運命は生まれついての嘘つきであるオーストリア人(ヒトラー)と、変質者の元将校(レーム)と、びっこの悪魔(ゲッベルス)に握られるのだ。そしてこの最後の男が最も悪質だ。彼は人間の姿をしたサタンなのだ[注 14][35]

ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であり、シュトラッサーの出方次第ではナチ党が分裂する可能性も高かった。ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた[34]

ヒトラーは党の分裂に怯え、もしそうなったならば「私の夢はどれ一つとして実現しないでしょう」「すべてが失われた時、私がどうするかおわかりでしょう。


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