ナチ党の権力掌握
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1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持するとヒンデンブルクに交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した[29]

ヒトラーは当初「自分は首相になるつもりだ。大統領の柄ではないし、大統領にはならないことも知っている」[注 8][30]と大統領選挙出馬を否定していたが、選挙公示の15日前に出馬を決めた。出馬しなければ支持者を失うことをおそれての立候補だった[29]

ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した[29]

選挙終了間もない1932年4月13日の州議会選挙では、ブリューニング首相と国防相ヴィルヘルム・グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられた[29]。グレーナー国防相がブリューニング首相と大統領に要請しての大統領令だった。左翼の準軍事組織が適用外であったので、ナチスは当局は偏っていると批判した[29]。シュライヒャーもこの措置に反発し、ヒンデンブルク大統領を説いて社会民主党の国旗団も同様に禁止させるべきであるという大統領書簡を発表させた。重大な問題を起こしていない国旗団を解散させることは出来ず、グレーナーはシュライヒャーの辞職要求を受けて辞任した。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト自由州においてナチ党は第一党となった[29]

さらにブリューニング内閣が打ち出した東部(東プロイセン)農業救済政策はユンカーの猛反発を受け、政権は末期状態となった。

国防相グレーナー配下のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による独裁体制を樹立することを目指し、ヒンデンブルク大統領側近という立場から政権中枢でブリューニング倒閣運動を展開した[29]5月8日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、突撃隊・親衛隊の禁止令を解除すること、新内閣成立まもなく総選挙を行うことと引き替えに協力を求めた。ヒトラーは応じ、次期内閣への支持を約束した。

国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍はグレーナーに軍の支持は失ったと告げたことで、1932年5月12日にグレーナーは辞任した[29]。5月29日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングも辞任した[29]。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約束された[29]

5月30日にブリューニング内閣は総辞職した。
パーペン内閣パーペンとシュライヒャー(1932年)

続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペン首相就任を打診し、さらにナチ党以外の政党からの影響を受けないような閣僚リストも作成したうえでパーペン内閣が1932年6月1日に成立した[29]。パーペン内閣には貴族出身者が多く『男爵内閣』と呼ばれた。シュライヒャーは国防相となった。パーペンは中央党の党員であったが、ブリューニングを裏切る形で後継首相となったことで中央党から離脱せざるを得なかった。このためパーペン内閣の与党は存在しなくなった。ヒトラーはパーペンに面会した際に「あなたの内閣は一時的な措置である」と述べた[29]。ナチ党は人気のないパーペン内閣を支持することはなく反政府の立場を鮮明にした。

5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州メクレンブルク=シュヴェリーン州ヘッセン州で44?49%の得票率を記録した[29]。突撃隊と親衛隊の禁令も解除された[29]
プロイセン血の日曜日事件

6月から7月にかけてドイツ各地でナチ党員と共産党員による衝突と殺人事件が多発し、相互に犠牲者を出していった[29]。7月17日、首都ベルリンを置くプロイセン自由州アルトナでの血の日曜日事件では突撃隊のパレードに対して共産党員・赤色戦線戦士同盟が発砲し、17人が死亡、64人が負傷した[29]。社会民主党の牙城であるプロイセン州では、社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めていたが、7月20日、パーペン内閣は大統領令によって、血の日曜日事件の責任などを理由にブラウン州首相を解任し、パーペンがプロイセン総督(プロイセン州国家弁務官)となった(プロイセン・クーデター[29]。社民党は抵抗できずに降伏した[29]。州政府罷免は裁判所によって違憲とされたが、パーペンは従わず乗り切った。この事件は後にナチ党が州政府を掌握する際の先例となった。
1932年7月ドイツ国会選挙ヒトラー(1932年)

ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった[29]。この1932年7月ドイツ国会選挙国民社会主義ドイツ労働者党はさらに躍進、230議席を得て第一党となった。パーペンは辞職してヒトラーに政権を渡すことを考えた。またヒトラーは自身を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診し、シュライヒャー将軍はヒトラーの要求をヒンデンブルク大統領に伝えたが、大統領は拒絶した[29]。ヒンデンブルクはこの時にはヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていた。

8月5日、シュライヒャーはヒトラーと会談し、副首相の地位を提示した。しかしヒトラーは首相の地位と全権委任法の成立を要求した。シュライヒャーはヒンデンブルクとヒトラーを会見させることのみ約束した。

8月13日、ヒトラーはベルリンを訪れシュライヒャー、パーペンと相次いで会談した。シュライヒャーとパーペンはヒトラーに副首相としての入閣を提案したが、ヒトラーは受け入れなかった[29]

その日の午後3時、ヒンデンブルクとヒトラーの会談が始まった。ヒトラーは首相の地位を要求したが、ヒンデンブルクは拒否し、突撃隊によるテロへの警告を行うとともに、パーペン内閣への協力を求めた。ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には最大限厳しく対応すると回答し、ヒトラーは自制心を保ったが怒りで爆発寸前だった[29]。ヒトラーは退出後には自分を『屈辱的な会談』に引っ張り出したパーペンを激しく罵った。すっかり気落ちしたヒトラーは副首相の地位でも良いかと弱気になったが、パーペンがこの会見の模様を新聞にリークしたことで激怒した。憤激した突撃隊が直接行動に出ようとする動きもあったが、突撃隊には2週間の休暇が与えられることで沈静化した。この新聞発表にはナチ党を引き入れようとしたシュライヒャーも当惑し、パーペンを見限って新政権を建てることを計画し始めた。

折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された[31]。ナチ党は「血の判決」だとパーペン政権を非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた[31]。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されるだろうと論じていた[31]
パーペン内閣崩壊ベルリン市電ストライキ。バリケードで線路を封鎖している

新国会が開催されると、ナチ党は中央党の協力を得てヘルマン・ゲーリングを国会議長に選出した。国会は当初はスムーズに展開していた。しかし、9月12日の本会議で共産党議員エルンスト・トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した[31]

すでにパーペンは8月30日時点でヒンデンブルク大統領から解散命令を受け取っていたが未提出のままだった[31]


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