ナチ党の権力掌握
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ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙では、ナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり[17]、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した[12]。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた[17]
世界恐慌の時代
テューリンゲン州議会選挙

1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。

1929年12月のテューリンゲン州[19]議会選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相のポストを獲得した[20]1930年にはテューリンゲン州政府にナチ党幹部のヴィルヘルム・フリックが内務大臣として入閣した。フリックは全権委任法バウハウスの閉校、警察組織制度改革などナチ党の思想に基づく政策を実行し、テューリンゲン州はナチ党政策の「実験場」となった[21]

国の中央政府(ライヒ政府)であったブリューニング内閣ヨーゼフ・ヴィルト内務大臣はナチ党の合法性を疑い、州政府から警察に出される補助金を打ち切ったが、これはライヒ政府とテューリンゲン州の訴訟に発展した。この訴訟においてはナチ党が非合法活動を行っている政党であるかどうかが争点となったが、ヒトラーは1930年9月20日に行われた「ウルム国軍訴訟」の法廷で「こうした高揚を代表する運動は、しかしながら、非合法な手段によっては準備されないのである」という「合法誓約」を行って党の合法性をアピールした[22]。また国防省がナチ党員である事を理由に職員を解雇したことは違法であると判決が下ったこともあり、ライヒ政府のテューリンゲン州への介入は違憲である可能性が高まった。こうした事で不利を察知したライヒ政府は和解に動き、12月30日にテューリンゲン州が和解に同意した。この和解によってナチ党の違法判断は行われる事が無く、ナチ党は完全な合法政党として扱われるようになった[23]

ナチ党の得票数の変化選挙日得票数得票率当選数
1928年5月20日810,0002.6%12人
1930年9月14日6,410,00018.3%107人
1932年7月31日13,750,00037.3%230人
1932年11月6日11,740,00033.1%196人
1933年3月5日17,280,00043.9%288人
1933年11月12日39,655,28892.2%661人

1930年の国会選挙

1929年の世界恐慌はドイツの経済に壊滅的な打撃を与え、この事態はドイツ政府への支持を一気に失わせた。1930年3月20日ドイツ社会民主党ヘルマン・ミュラー首相が辞職すると、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は後継首相に中央党ハインリヒ・ブリューニングを指名した。ブリューニングは社会民主党の協力を得て大連立による議会運営を目指したが、社会民主党を嫌っていたヒンデンブルクの意向やドイツ人民党との連携を嫌った社会民主党側の拒絶もあり、少数連立による議会運営を余儀なくされた。従来の内閣は議会勢力の支持を受けた結果、大統領に任命されるという形式が執られていたが、ブリューニング以降の首相任命においてはこれらの手続きはとられなかった。これ以降の内閣は国会を基礎とせず、ただ大統領の信任のみに基づく内閣であったため、大統領内閣と呼ばれる。

1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた[12]。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した[24]

1930年9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった[25]。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした[25]

選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった[25]。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った[25]

与党の国家人民党と人民党の議席が激減し、ブリューニング首相の政権運営はさらに苦しくなった。ブリューニングはドイツ社会民主党の協力を得たが、議会運営は困難であった。このためヒンデンブルク大統領に議会の議決を必要としない大統領令を発出させることで政権運営を行った。1931年には大統領緊急令の数が国会採択を上回り、1932年には大統領緊急令60に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[26]。しかし社会民主党に反感を持っていたヒンデンブルクは、次第にブリューニングへの信頼を失い、息子で陸軍大佐のオスカー・フォン・ヒンデンブルクや大統領官房長のオットー・マイスナー国軍の実力者である国防次官クルト・フォン・シュライヒャーらといった側近グループを重用し始めた。
オーストリアとの関税同盟

1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した[24]。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった[24]。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフランスはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した[27]。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた[24]。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった[24]労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた[24]

シュライヒャーはナチ党の協力を得ることが円滑な政権運営を可能にすると考え、ヒトラーを取り込もうとした。1931年10月14日、シュライヒャーの仲介でヒトラーははじめてヒンデンブルク大統領と会談した。ヒトラーは政府への協力を確約せず、さらに元帥(ヒンデンブルク)の威厳に落ち着きを失ったこともあり、相互に悪印象を与えるだけの会談となった。ヒンデンブルクはヒトラーの長広舌にうんざりして「首相の器ではなく、せいぜい郵政大臣どまり」[28]と評している。10月21日、ナチ党は国家人民党や鉄兜団などの右派とともにハルツブルク戦線を結成してブリューニング内閣とヒンデンブルク大統領への攻撃を強めた。


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