ナチ党の権力掌握
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ヒトラーは11月6日カールが会合に現れなかったため、クーデターを決心、11月8日カールの集会に武装したナチ党が乱入し、ヒトラーは聴衆に向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣、カールは州摂政に任命し、「ベルリンのユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府の樹立を宣言した[13]。ヒトラーは「今夜、ドイツ革命がはじまる」と宣言し、群衆は賛同の声にどよめいた[13]。しかし、バイエルン軍も州警察も一揆に協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦がはじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆は一日で鎮圧された[12][13]。ナチ党は禁止されたが、三巨頭も権力と信頼を失い、翌年に失脚した[13]

ヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ、公務員40万人を解雇するなど大幅な予算削減を行った[12]

ナチ党、ルーデンドルフ、オーバーラント団、国旗団は1923年に首都ベルリンに進軍するためバイエルン州政府を掌握しようとクーデターを起こした。このミュンヘン一揆による権力掌握は失敗したものの、ヒトラーとナチ党の存在はドイツ国内外に広く知れ渡った。ナチ党はその後合法戦略に転換し、国会選挙での議席獲得を目指した。一方で党の半武装組織突撃隊は共産党の赤色戦線戦士同盟などと激しく衝突し、死者を出すことも珍しくなかった。また政治活動が禁じられていた内部にも浸透を図った。しかしこの過程で党員の将校が党細胞を組織しようとしたとして、反逆罪で訴追される事態が発生した。これはウルム国軍訴訟(ドイツ語版)と呼ばれ、ナチ党の合法性をも問う訴訟となった。

ミュンヘン一揆を起こしたルーデンドルフは無罪放免になったあと、1924年国家社会主義自由運動の国会議員となり、1925年ドイツ大統領選挙に出馬したが得票数最低で落選した[14]

1924年1月、ドイツ経済の破壊なしに賠償支払いを円滑にするドーズ案が出され、8月に連合国とドイツは了承した[12]。国際環境の好転によって12月総選挙ではナチ党も共産党も後退した[12]。しかし、国内では右翼、左翼の準軍事組織の結成が相次いだ。1924年2月、社民党系の「黒赤金国旗団」が310万を擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟が結成され10万の勢力となった[12]。ナチ党の突撃隊、鉄兜団、ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した[12]。1924年4月のバイエルン州選挙、および5月の国会選挙で民族ブロックが第一党となった[13]『我が闘争』

ミュンヘン一揆で収監されたヒトラーの留置場での待遇はかなり良く、支持者からのプレゼントや賛辞であふれ、来客も絶え間なく訪れ、法廷で演説し歓声が沸いた[13]。1924年4月の判決では禁錮(城塞禁錮)5年と200金マルクの罰金にとどまり、警官の犠牲や社民党事務所の破壊、14兆6050億マルクの強奪などの責任は問われなかった[13]。ヒトラーは獄中で『我が闘争』を執筆、1925年から1926年にかけて出版し、「全能の造物主の精神において」「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言した[15]。ヒトラーによれば、「寄生的存在であるユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主の民族を消滅させる[16]。ユダヤ人は平等と労働者の条件の改善を主張しているが、その目的はユダヤ人以外のすべての民族を奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川にニグロを連れてくるなどあらゆる手段を用いて混血による退化をもたらし白色人種を滅ぼそうとしている[16]。人類のプロメテウスであり、輝く額から神々しい天才のひらめきによって文化を創造したアーリア人が絶滅すれば地上は深い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろう」と述べた[16]

1925年2月、禁止処分が解除されたためナチ党が再結成され、新規約では「ドイツ国民の最大の敵はユダヤ人とマルクス主義」とされた[17]。2月27日の党集会は盛会となった[17]。27年までナチは公の場での意見表明は禁じられたが、1926年7月のヴァイマル党大会では演説が許可され、親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし、推定8000人の参加者は熱烈にヒトラーを歓迎した[17]
低迷期

エーベルト大統領が死去したため行われた1925年の大統領選挙では、与党ヴァイマル連合(社民党・中央党・民主党)は中央党のヴィルヘルム・マルクスを、一方、国家人民党ら右派は戦時英雄ヒンデンブルクを担ぎ、後者が勝利した[12]。ヒンデンブルクは当初穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであった[12]。ヒンデンブルクは1925年末ロカルノ条約を締結し、国際連盟への加盟を実現させ、これによりヨーロッパの国際政治は安定したが、ソ連はロカルノ体制を警戒した[12]

当時、ナチ党は低迷期に入っていた。1927年、第四次マルクス内閣は失業保険制度など失業政策を実現させた[12]。1927年3月にナチ党はバイエルンで演説禁止が解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力は伸びなかった[18]。1927年の内務省報告でも、ナチ党は影響力がないとみなされていた[17]

ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙では、ナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり[17]、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した[12]。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた[17]
世界恐慌の時代
テューリンゲン州議会選挙

1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。

1929年12月のテューリンゲン州[19]議会選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相のポストを獲得した[20]1930年にはテューリンゲン州政府にナチ党幹部のヴィルヘルム・フリックが内務大臣として入閣した。フリックは全権委任法バウハウスの閉校、警察組織制度改革などナチ党の思想に基づく政策を実行し、テューリンゲン州はナチ党政策の「実験場」となった[21]

国の中央政府(ライヒ政府)であったブリューニング内閣ヨーゼフ・ヴィルト内務大臣はナチ党の合法性を疑い、州政府から警察に出される補助金を打ち切ったが、これはライヒ政府とテューリンゲン州の訴訟に発展した。


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