ナチ党の権力掌握
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首相就任日に撮影されたヒトラーとナチ党幹部[注 20]

ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚はパーペンが選定した。ナチ党員の入閣はヴィルヘルム・フリックとゲーリングの2名のみであった。さらに内務大臣であるフリックには警察の管理権が無いという弱体ぶりで、またゲーリングは無任所大臣にすぎなかった。このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた[注 21]。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている[注 22][46]

2月1日、ヒトラーはラジオ演説で、1919年のドイツ革命以来14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊すると警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べた[43]。具体的政策としては、四カ年計画を発表し、大規模な失業対策を約束した。このラジオ演説に、ヒトラーは「国民的高揚」という語を用いたので世論はヒトラー・フーゲンベルク政府を「国民的高揚の政府」と名付けていた。しかし、ナチ党の幹部連、特にゲッベルスはこの呼称に飽きたらなさを感じており、3月末以後からは「国民的革命」の語を使用し始めた。従って1933年の3月末迄を「国民的高揚時代」と称し、同年4月から中頃迄を「国民的革命時代」と呼ぶのを常とした[47]

2月2日、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、早速国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るために、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅で軍幹部を集めて政策の説明を行った。会談を仲介したのは新国防相のブロンベルクであった。ヒトラーはマルクシズムと「悪性腫瘍のような民主主義」の根絶を述べた。また「東方における領土征服とその容赦ないドイツ化」(東方生存圏)のために再軍備を行うとした。また軍事組織になるのではないかと警戒されていた突撃隊に関しては、軍隊が「唯一の武器の所持者であり、その組織に手を加えるつもりはない」と話した。ヴェルナー・フォン・フリッチュフリードリヒ・フロムといった将軍は侵略構想に不安感を覚えたが、海軍のエーリヒ・レーダーのように好感を持って迎えた将軍も存在した。これ以降、この時ヴィルヘルム・フォン・レープが感じたようにヒトラーとナチ党は軍部の取り込みに力を入れるようになった。一方で国軍にかわって軍となることを目指していた突撃隊幕僚長エルンスト・レームを始めとする突撃隊幹部は次第に反感を募らせていった。

2月4日、「ドイツ民族保護のための大統領令[48]が発出され政府による集会・デモ・政党機関紙の統制が行われることになった[49]
プロイセン州の強制的同一化

1933年2月6日、かねてから中央政府やナチ党に反発していたプロイセン州政府に対して秩序確立のための大統領令[50]が出され、プロイセン州は国家弁務官となるパーペンの指揮下に置かれた。

プロイセン州はドイツ全土の3分の2を占め、さらに首都ベルリンをも擁していたから、パーペンはこの州の政府を掌握することによって自分の権力が確固たるものとなったと考えた。ただ、この時にヒトラーはパーペンに要求してプロイセン州の内相にゲーリングを就任させることに成功した。州の内務省はその州の警察を管掌していたから、これによりドイツ国内で最強のプロイセン州警察が、中央政府では無任所大臣にすぎなかったゲーリングの手中に握られることとなったのである。州内相となったゲーリングは警察幹部を自分が信頼できる人物に置き換え、「突撃隊、親衛隊、鉄兜団への敵意を示すような行動を避ける」ことと「国家に敵意を持つ組織には断固として対処し、銃の使用をためらわない」ように通達した。これは実質的な共産党に対する警察権力の行使を容認したものであり、共産党員は反発し、共産党の機関紙は政権を激しく非難した。しかしゲーリングはこれを『共産党叛乱の予告』として、2月21日には突撃隊、親衛隊、鉄兜団の団員5万名を『補助警察(ドイツ語版)』として雇い入れた。ラインハルト・ハイドリヒは後に「1933年にナチ党が国政の指導を引き受けたとき、自分たちにとって、国家の敵を撲滅する最重要手段の一つが警察組織でなければならないということははっきりしていた。」と述べており[51]、『警察国家』はナチス体制を示す象徴表現のひとつとなった。2月24日には共産党本部のカール・リープクネヒト館(ドイツ語版)をプロイセン州警察当局が捜索し、「共産党叛乱の計画書」を発見したと発表した。

これを先例として国家弁務官は他の州にも相次いで置かれ、州の独立は失われていった。これは国家による州の強制的同一化(Gleichschaltung)の始まりであった。
国会議事堂放火事件炎上する国会議事堂詳細は「ドイツ国会議事堂放火事件」を参照

1933年2月27日の夜、国会議事堂が炎上した。現場では、元オランダ共産党(英語版)員で国際共産主義グループ (IKG)に属するマリヌス・ファン・デア・ルッベが捕らえられた。ルッベは国会議事堂に火を付ければ革命勢力が立ち上がると考えて放火を行ったと供述している。調査に当たったプロイセン州政治警察局のルドルフ・ディールスもルッベの単独犯行であると見ていた。この動きは火事の発生時点からナチ党によって仕組まれた陰謀であるという説もあるが、ルッベ単独による偶発的な事件であるとする説が強い。

この放火は単独犯だったが、ナチ党は共産党による組織的暴動とみなし大弾圧を開始し、4月までにプロイセンだけで約2万5000人が拘禁された[52]。ヒトラーは国会議事堂放火事件を「共産主義者による叛乱の始まり」であると主張し、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」[53]と叫び、単独犯ではなく組織的な陰謀であると断定した。ゲーリングもディールスの意見を無視し、公式発表にあった「百ポンド」の放火材料も「千ポンド」と書き直した。さらに二人の共産党議員が共犯であるとも付け加えた。この日のうちに国会と地方の共産党議員および公務員への逮捕命令が出され、共産党系新聞はすべて発行停止となった。

翌2月28日、ヒトラーは閣議で「民族と国家の保護のための大統領令[54]と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令[注 23] 」の二つの緊急大統領令制定を提案した。これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」[55]ためのものであり、政府は非常大権を得た。言論・報道・集会および結社の自由、通信の秘密は制限され、令状によらない逮捕・「保護拘禁(ドイツ語版)」が可能となった。秩序回復のためには州自治権よりも政府の干渉権が優先するとされた[52]。パーペンもわずかな修正を加えただけで賛成し、ヒンデンブルクも黙って署名した。この結果3,000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員が逮捕・拘束された。
「最後の選挙」詳細は「1933年3月ドイツ国会選挙」を参照

2月20日、シャハトの仲介でヒトラー、ゲーリングは国会内に置かれた議長公邸(ドイツ語版)でクルップIG・ファルベンといったドイツ有数の企業の首脳との会合を行った (1933年2月20日の秘密会談(ドイツ語版))。この席でヒトラーはナチ党への協力を求め、ゲーリングは「この選挙がこれから先10年間の、いやおそらくは100年間の最後の選挙となることを認識されるのであれば、われわれがみなさんに要求する犠牲は決して過大なものではないでしょう。」と語りかけている[56]。シャハトが全体で総額300万ライヒスマルクの献金を提案すると、グスタフ・クルップがルール財閥を代表して拠出した100万ライヒスマルクを筆頭に、他の企業も追随して献金した。シャハトは「(新内閣は)ナチス党が主張している『でまかせの改革』を実行するつもりはない」[57]と考えており、他の財界人も同じ考え方をしていた。

ヒトラーは首相就任を「国家社会主義運動にドイツの指導をヒンデンブルクが託した」ものであると定義し、「国家社会主義革命」によって手に入れたものであるとした。つまりこの時点でヒトラーとナチ党は「国民と国家の指導者」(nationaler Fuhrer)となっており、選挙はその信任投票であるとした[58]


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