ナチ党の権力掌握
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別室の会談で何が話されたのかは現在も明確になっていないが、ヒトラーがヒンデンブルクの土地取得に関する疑惑を表沙汰にすると脅迫したものと歴史学者は見ている[注 16]。会食の後、車に乗ったオスカーは「こうなってはやむを得ない。ナチスを政府に迎えざるをえないだろう」とつぶやいた[注 17][39]。パーペンはこの時のオスカーの様子を見て、自らの首相就任を諦めた。以降パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルクに働きかけはじめた。
シュライヒャー内閣崩壊

オスカーとヒトラーの会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られた[注 18]が、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案した。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られた。シュライヒャーは憲法を犯す意思はないと弁明したが、この弁明はかえって数少ない与党である国家人民党に見捨てられることとなった。これを見てパーペンは国家人民党と鉄兜団を自派に引き入れた。

1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけ、受け入れられなければ自らは辞職するとした。ヒンデンブルクは再度拒絶し、シュライヒャーの辞職を求めた。しかしヒンデンブルクはなおも迷っており、次のように語った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ヒンデンブルク大統領
「わたしがこれからしようとしていることが正しいかどうかは、私自身にもわからない。だが間もなく(天を指さして)あそこに行けば答えが出るだろう。私はすでに墓の中に片足を突っこんでいるが、後で天国に行ったときこの行為を後悔しないという確信はない」[40]
シュライヒャー首相
「このような背信のあとで、閣下は果たして天国へ行けるでしょうか?」[注 19]—ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』2巻 集英社〈集英社文庫〉、113-114頁

シュライヒャー首相は輸入関税に消極的であるとして農村同盟から闘争を宣言され、さらにドイツ国家人民党からも抵抗を宣言されたため、1933年1月28日に内閣総辞職した[41]
ヒトラー内閣成立

シュライヒャーが去った後、パーペン、オスカー、マイスナーなどの大統領の重臣たちがヒンデンブルクの元を訪れてヒトラーの首相任命を要請した。ヒンデンブルクはパーペン内閣に戻そうとしたが、ヒトラー内閣も可能と考えるようになっていた[41]。ヒンデンブルクは「ではあのヒトラーを首相にするのが、わしの不愉快きわまる義務なのかね?」[42]と言って抵抗したものの最後には折れ、パーペンを副首相、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク中将を国防相にすることを条件とした。ヒトラーはパーペンを副首相とすることを不承不承認めたため、ヒンデンブルクもヒトラーが引き下がったことを喜び、ヒトラー内閣を承認した[41]

翌日1月29日、パーペンは大統領の言葉をヒトラーに伝え、ヒトラーは承諾した。パーペンによる閣僚リストでは外相ノイラート、財務相クロージク、運輸郵政相リューベナハはシュライヒャー内閣からの引き継ぎで、プロイセン内相にゲーリング、経済相に国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクだった[41]

パーペンは保守派によってヒトラーを確実に封じ込めることができると考えており、懸念に対して「われわれはヒトラーを雇ったのだ」と語った[41]。フーゲンベルクは、ヒトラー内閣以外に選択肢はないが、ヒトラーの権力を制限すべきだと会談で述べ、ヒトラーの就任に反対した鉄兜団に対してヒトラーの封じ込めは可能だと反論した[41]

ヒトラーは選挙後に大統領の同意に頼らないようにするための全権委任法を通すとパーペンに伝え、頻繁な国会選挙を望まないパーペンとヒンデンブルクも了承した[41]成立日のヒトラー内閣1933年1月30日の夜ブランデンブルク門前で松明行進を行う突撃隊首相官邸の窓に現れたヒトラー

首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは喜び、マクダ・ゲッベルスが焼いたナッツケーキで祝宴を開いた。そこにシュライヒャーの使者ヴェルナー・フォン・アルヴェンスレーベン(ドイツ語版)が訪れ、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に指名すれば、軍部のクーデターが起こると警告して去った。ヒトラーは驚き、ベルリンの突撃隊に警戒態勢を取らせ、党員である警察幹部にヴィルヘルム街(官庁街)の占領準備を命令した。さらにジュネーブ軍縮会議から帰国中のブロンベルク中将に連絡し、ベルリン駅から大統領官邸に直行させた。この措置は一揆の発生に対応するためと、シュライヒャーとの連絡を絶ってブロンベルクを確実に味方に引き入れるためであった。

1933年1月30日朝、大統領官邸に新内閣の首脳が集まった。国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ドイツ国家人民党鉄兜団の連立内閣ヒトラー内閣が誕生した。

首相はナチ党のヒトラー、副首相にドイツ国家人民党のパーペンが就任した。首相官邸でヒトラーはプロイセン州総督へ就任できなかったことを不満に思い、国会選挙をすると主張し、フーゲンベルクと口論になるという一幕もあった[41]。フーゲンベルクはナチ党が要求する総選挙に反対し、新政府発足は遅れた。パーペンは午前11時までに政府が成立しなければシュライヒャーと軍のクーデターが起こると激高した。そこにヒトラーとゲーリングが到着して選挙後も内閣改造はしないと言ってフーゲンベルクを説得したが、彼はなおも納得しなかった。しかしマイスナーが大統領を待たせてはいけないとたびたび注意し、解散については中央党やバイエルン人民党とも話し合うとヒトラーが告げたため、フーゲンベルクも折れた。

ヒンデンブルク大統領は国民的右翼勢力が遂に結束したことを歓迎した[41]

それから新首相の親任式が行われたが、大統領が通常行う歓迎演説や任務の説明も省略された。ヒトラーはその日の夕方、閣僚に対して、共産党を禁止すればゼネストとなり軍の動員となるが、それは避けたい、最善の策は国会を解散し、次の選挙で政府が過半数をとることだと主張した[43]。パーペンとヒンデンブルクは国民による新政権の承認の必要性ということから、選挙を承認した[43]。選挙にあたってヒトラーは、パーペン内閣が準備していた「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発効させ、敵対勢力のメディアや集会を押さえ込むために活用された[43]

ナチ党員は歓喜し、街に繰り出して行進した。夜にはゲッベルスの演出で松明を持った突撃隊員が大行進を行った。後に「白いバラ」運動を起こす反ナチ運動家となったショル兄妹の姉・インゲは、「ラジオも新聞も今後ドイツのすべてがよい方向に進むであろう」と報じていたと回想している[44]首相就任日に撮影されたヒトラーとナチ党幹部[注 20]

ヒトラー内閣は首相こそヒトラーであるものの、閣僚はパーペンが選定した。ナチ党員の入閣はヴィルヘルム・フリックとゲーリングの2名のみであった。さらに内務大臣であるフリックには警察の管理権が無いという弱体ぶりで、またゲーリングは無任所大臣にすぎなかった。このため外部の観測では実権がパーペンのものであると見られていた[注 21]。パーペン自身もそのつもりであり、「われわれは彼を雇ったのさ」「わたしはヒンデンブルクに信頼されている。二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられてきいきい泣いているだろう」と語っている[注 22][46]

2月1日、ヒトラーはラジオ演説で、1919年のドイツ革命以来14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊すると警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べた[43]。具体的政策としては、四カ年計画を発表し、大規模な失業対策を約束した。このラジオ演説に、ヒトラーは「国民的高揚」という語を用いたので世論はヒトラー・フーゲンベルク政府を「国民的高揚の政府」と名付けていた。しかし、ナチ党の幹部連、特にゲッベルスはこの呼称に飽きたらなさを感じており、3月末以後からは「国民的革命」の語を使用し始めた。従って1933年の3月末迄を「国民的高揚時代」と称し、同年4月から中頃迄を「国民的革命時代」と呼ぶのを常とした[47]

2月2日、ヒトラーは中央党との話し合いが決裂したとして、早速国会を大統領令により解散させた。さらに軍の支持を得るために、ハンマーシュタイン=エクヴォルト兵務局長(参謀本部の秘匿名称)宅で軍幹部を集めて政策の説明を行った。


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