ナチ党の権力掌握
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彼は人間の姿をしたサタンなのだ[注 14][35]

ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であり、シュトラッサーの出方次第ではナチ党が分裂する可能性も高かった。ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた[34]

ヒトラーは党の分裂に怯え、もしそうなったならば「私の夢はどれ一つとして実現しないでしょう」「すべてが失われた時、私がどうするかおわかりでしょう。(中略)約束を守って、弾丸で自分の一生にけりを付けるつもりです」とクリスマスにヴィニフレート・ワーグナーへ送られた手紙で自殺すらほのめかしたけれども、シュトラッサーは党内の支持勢力を糾合してヒトラーに対抗する道を選ばず、党の分裂は回避された[36]

ヒトラー、ゲッベルス、レーム、ヒムラーらは、シュトラッサーの作った組織を廃止し、大管区指導者をヒトラーが直接指導する体制を作り上げ、党内ではヒトラー支持のキャンペーンが実施された。12月初頭のテューリンゲン州の町村議会選挙でナチ党は壊滅的な結果に終わった[34]

一方、シュライヒャー首相は社会民主党の協力を得るため、労働組合の組織全ドイツ労働総同盟(ドイツ語版)の代表テオドール・ライパルトと接触を持ったが、社会民主党はシュライヒャーに反感を持っており、交渉を禁じた。

また、シュライヒャーはユンカーを押さえようと1930年に行われた東部農業救済政策で不当な利益を得た者の調査を開始するとした。しかしこれはユンカーの猛反発を受け、自身も東部に農地を持つヒンデンブルクもシュライヒャーへの不信感を募らせた。この農地は息子オスカーの名義となっており、相続税の負担を逃れるための名義替えであるという疑惑が存在していた。
パーペンの水面下の策動ケルンにあるシュレーダー男爵旧邸車に乗り込もうとするヒンデンブルク大統領と息子オスカー。後部中央の黒服の人物がマイスナー、その右がパーペン

この情勢を見てパーペンは復権のために動き出した。ワイン商でナチ党員のヨアヒム・フォン・リッベントロップを仲介にしてヒトラーと接触を取り始めた。1933年1月4日ケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー(ドイツ語版)男爵邸でヒトラーとパーペンは極秘会談を行った(銀行家シュレーダー邸におけるパーペンのヒトラーとの会談(ドイツ語版))。この会談でヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。シュライヒャーに裏切られたヒトラーにとってパーペンはヒンデンブルクとの交渉人であり、他方のパーペンもシュライヒャーに政権を追われたことから、ヒトラーの入閣を画策し、さらにパーペンを副首相とすればヒトラーの首相就任に働きかけるとの合意であった[37]。しかしこの情報は新聞記者に察知され、シュライヒャーの知るところとなる。

シュライヒャーはヒンデンブルクにパーペンに接触しないように依頼するが、ヒンデンブルクはパーペンが密かにヒトラーと交渉することを許可した。さらに、シュライヒャーはユンカーを味方につけようとして破産したユンカーの農地買い取り計画を提議したものの、シュライヒャーを見限りつつあったヒンデンブルクはこの案を拒否した。軍部の上層部は大半がユンカーであったため、ユンカー優遇策に失敗したシュライヒャーは軍の支持すらも失ってしまった。

1月15日にはリッペ自由州で州議会選挙(ドイツ語版)が行われた。リッペ州はドイツにおける最小の州であり、その選挙は普通であればほとんど注目されない地方選挙であり、どの政党も本腰をいれて取り組んでいなかった。しかしナチ党の選挙の責任者であったゲッベルスはこれを逆手にとり、リッペを一大キャンペーンで覆い尽くした。このことで、ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を占う一大選挙であるかのように錯覚した。選挙の結果、ナチ党は9議席を獲得して第一党となった。ナチ党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」[注 15][38]。この翌日、シュトラッサーは正式に党から除名された。1月18日、リッベントロップ邸でヒトラーとパーペンの再交渉が行われた。ヒトラーは首相の地位を再度要求したが、パーペンはヒンデンブルクやその息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルク大佐が強い反対を示し困難であると話した。この際にリッベントロップはオスカーとヒトラーの会談を提案した。

ヒンデンブルクは息子のオスカーの言葉に左右されることが多かったから、ヒンデンブルクを動かすためには彼の説得が不可欠であった。それまでは公然とヒトラー嫌いの発言をしていたオスカーを説得するために1月22日にリッベントロップの別荘でヒトラーとオスカーの極秘会談が行われることになった。オスカーは大統領官房長マイスナーを同行し、ヒトラーはゲーリングとヴィルヘルム・フリックを連れてきていた。一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談し、それから食堂で豆とベーコン料理のみの会食が行われた。別室の会談で何が話されたのかは現在も明確になっていないが、ヒトラーがヒンデンブルクの土地取得に関する疑惑を表沙汰にすると脅迫したものと歴史学者は見ている[注 16]。会食の後、車に乗ったオスカーは「こうなってはやむを得ない。ナチスを政府に迎えざるをえないだろう」とつぶやいた[注 17][39]。パーペンはこの時のオスカーの様子を見て、自らの首相就任を諦めた。以降パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルクに働きかけはじめた。
シュライヒャー内閣崩壊

オスカーとヒトラーの会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られた[注 18]が、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案した。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られた。シュライヒャーは憲法を犯す意思はないと弁明したが、この弁明はかえって数少ない与党である国家人民党に見捨てられることとなった。これを見てパーペンは国家人民党と鉄兜団を自派に引き入れた。

1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけ、受け入れられなければ自らは辞職するとした。ヒンデンブルクは再度拒絶し、シュライヒャーの辞職を求めた。しかしヒンデンブルクはなおも迷っており、次のように語った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ヒンデンブルク大統領
「わたしがこれからしようとしていることが正しいかどうかは、私自身にもわからない。だが間もなく(天を指さして)あそこに行けば答えが出るだろう。私はすでに墓の中に片足を突っこんでいるが、後で天国に行ったときこの行為を後悔しないという確信はない」[40]
シュライヒャー首相
「このような背信のあとで、閣下は果たして天国へ行けるでしょうか?」[注 19]—ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』2巻 集英社〈集英社文庫〉、113-114頁

シュライヒャー首相は輸入関税に消極的であるとして農村同盟から闘争を宣言され、さらにドイツ国家人民党からも抵抗を宣言されたため、1933年1月28日に内閣総辞職した[41]
ヒトラー内閣成立

シュライヒャーが去った後、パーペン、オスカー、マイスナーなどの大統領の重臣たちがヒンデンブルクの元を訪れてヒトラーの首相任命を要請した。ヒンデンブルクはパーペン内閣に戻そうとしたが、ヒトラー内閣も可能と考えるようになっていた[41]。ヒンデンブルクは「ではあのヒトラーを首相にするのが、わしの不愉快きわまる義務なのかね?」[42]と言って抵抗したものの最後には折れ、パーペンを副首相、ヴェルナー・フォン・ブロンベルク中将を国防相にすることを条件とした。ヒトラーはパーペンを副首相とすることを不承不承認めたため、ヒンデンブルクもヒトラーが引き下がったことを喜び、ヒトラー内閣を承認した[41]

翌日1月29日、パーペンは大統領の言葉をヒトラーに伝え、ヒトラーは承諾した。パーペンによる閣僚リストでは外相ノイラート、財務相クロージク、運輸郵政相リューベナハはシュライヒャー内閣からの引き継ぎで、プロイセン内相にゲーリング、経済相に国家人民党のアルフレート・フーゲンベルクだった[41]

パーペンは保守派によってヒトラーを確実に封じ込めることができると考えており、懸念に対して「われわれはヒトラーを雇ったのだ」と語った[41]。フーゲンベルクは、ヒトラー内閣以外に選択肢はないが、ヒトラーの権力を制限すべきだと会談で述べ、ヒトラーの就任に反対した鉄兜団に対してヒトラーの封じ込めは可能だと反論した[41]

ヒトラーは選挙後に大統領の同意に頼らないようにするための全権委任法を通すとパーペンに伝え、頻繁な国会選挙を望まないパーペンとヒンデンブルクも了承した[41]成立日のヒトラー内閣1933年1月30日の夜ブランデンブルク門前で松明行進を行う突撃隊首相官邸の窓に現れたヒトラー

首相への道が開けたことにヒトラーとゲーリング、ゲッベルスは喜び、マクダ・ゲッベルスが焼いたナッツケーキで祝宴を開いた。そこにシュライヒャーの使者ヴェルナー・フォン・アルヴェンスレーベン(ドイツ語版)が訪れ、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に指名すれば、軍部のクーデターが起こると警告して去った。ヒトラーは驚き、ベルリンの突撃隊に警戒態勢を取らせ、党員である警察幹部にヴィルヘルム街(官庁街)の占領準備を命令した。


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