ナチ党の権力掌握
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

パーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間は自分が首相として留まると主張したが、これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は苦難の道を選びたり[注 11]」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけ[注 12]、ここにいたって二人の関係は完全に破綻した。

ヒンデンブルクはパーペンに組閣を依頼したが、シュライヒャーは非常事態を宣言して憲法違反を犯す計画がなされてしまえば内戦になることは避けられないし、ストライキと混乱が起きると軍は国境を防衛できないと忠告した[31]。翌日の閣議でシュライヒャーは軍や警察にナチ党が浸透しているため、強硬手段は内戦やポーランドの介入を招くとの軍の調査結果を発表した[注 13]。この結果を受けてヒンデンブルクも「祖国を内戦に追いやることは出来ない」として、不承不承ながらシュライヒャーを首相に任命した[31]。ヒンデンブルクはパーペンを気に入っており、辞任の際も握手して落涙し、「私には一人の戦友がいた」と書かれた写真を贈った[33]。この後、パーペンはヒンデンブルクの側近となった。
シュライヒャー内閣
ナチ党分裂の危機グレゴール・シュトラッサー

12月3日、シュライヒャーは正式に首相に就任した。

シュライヒャーはヒトラーに協力を求めたが拒絶されたため、ヒトラーの右腕で現実的穏健派だったグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診した[34]。ヒトラーが指導者原理の強硬路線でパーペン内閣への入閣を拒絶したのに対して、シュトラッサーは首相ポスト以外であっても入閣すべきであると考えており、当時党内の幹部では唯一の反対意見を述べるなどナチ党の組織を現実的に再編した穏健派とみなされていた[34]。またシュトラッサーは労働組合にも融和的であった[34]

シュトラッサーは党の資金力がこれ以上の選挙に耐えられないと考えており、この提案を党に持ち帰ることを了承した。しかし12月5日にホテル・カイザーホーフで開かれた幹部会でこの提案を披露したところ、かつての部下であるゲッベルスをはじめとする幹部からヒトラーを裏切ったと猛反発を受けた。ヒトラーもシュトラッサーを猛批判し、ショックを受けたシュトラッサーは12月7日に党の役職をすべて辞任し、翌日ミュンヘンに帰った。この時、シュトラッサーは次のような言葉を残している。今後ドイツの運命は生まれついての嘘つきであるオーストリア人(ヒトラー)と、変質者の元将校(レーム)と、びっこの悪魔(ゲッベルス)に握られるのだ。そしてこの最後の男が最も悪質だ。彼は人間の姿をしたサタンなのだ[注 14][35]

ナチス左派の領袖であり、組織を仕切ってきた古参幹部シュトラッサーの離脱はナチ党にとって大きな衝撃であり、シュトラッサーの出方次第ではナチ党が分裂する可能性も高かった。ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた[34]

ヒトラーは党の分裂に怯え、もしそうなったならば「私の夢はどれ一つとして実現しないでしょう」「すべてが失われた時、私がどうするかおわかりでしょう。(中略)約束を守って、弾丸で自分の一生にけりを付けるつもりです」とクリスマスにヴィニフレート・ワーグナーへ送られた手紙で自殺すらほのめかしたけれども、シュトラッサーは党内の支持勢力を糾合してヒトラーに対抗する道を選ばず、党の分裂は回避された[36]

ヒトラー、ゲッベルス、レーム、ヒムラーらは、シュトラッサーの作った組織を廃止し、大管区指導者をヒトラーが直接指導する体制を作り上げ、党内ではヒトラー支持のキャンペーンが実施された。12月初頭のテューリンゲン州の町村議会選挙でナチ党は壊滅的な結果に終わった[34]

一方、シュライヒャー首相は社会民主党の協力を得るため、労働組合の組織全ドイツ労働総同盟(ドイツ語版)の代表テオドール・ライパルトと接触を持ったが、社会民主党はシュライヒャーに反感を持っており、交渉を禁じた。

また、シュライヒャーはユンカーを押さえようと1930年に行われた東部農業救済政策で不当な利益を得た者の調査を開始するとした。しかしこれはユンカーの猛反発を受け、自身も東部に農地を持つヒンデンブルクもシュライヒャーへの不信感を募らせた。この農地は息子オスカーの名義となっており、相続税の負担を逃れるための名義替えであるという疑惑が存在していた。
パーペンの水面下の策動ケルンにあるシュレーダー男爵旧邸車に乗り込もうとするヒンデンブルク大統領と息子オスカー。後部中央の黒服の人物がマイスナー、その右がパーペン

この情勢を見てパーペンは復権のために動き出した。ワイン商でナチ党員のヨアヒム・フォン・リッベントロップを仲介にしてヒトラーと接触を取り始めた。1933年1月4日ケルンの銀行家クルト・フォン・シュレーダー(ドイツ語版)男爵邸でヒトラーとパーペンは極秘会談を行った(銀行家シュレーダー邸におけるパーペンのヒトラーとの会談(ドイツ語版))。この会談でヒトラーとパーペンによる内閣の設立が合意された。シュライヒャーに裏切られたヒトラーにとってパーペンはヒンデンブルクとの交渉人であり、他方のパーペンもシュライヒャーに政権を追われたことから、ヒトラーの入閣を画策し、さらにパーペンを副首相とすればヒトラーの首相就任に働きかけるとの合意であった[37]。しかしこの情報は新聞記者に察知され、シュライヒャーの知るところとなる。

シュライヒャーはヒンデンブルクにパーペンに接触しないように依頼するが、ヒンデンブルクはパーペンが密かにヒトラーと交渉することを許可した。さらに、シュライヒャーはユンカーを味方につけようとして破産したユンカーの農地買い取り計画を提議したものの、シュライヒャーを見限りつつあったヒンデンブルクはこの案を拒否した。軍部の上層部は大半がユンカーであったため、ユンカー優遇策に失敗したシュライヒャーは軍の支持すらも失ってしまった。

1月15日にはリッペ自由州で州議会選挙(ドイツ語版)が行われた。リッペ州はドイツにおける最小の州であり、その選挙は普通であればほとんど注目されない地方選挙であり、どの政党も本腰をいれて取り組んでいなかった。しかしナチ党の選挙の責任者であったゲッベルスはこれを逆手にとり、リッペを一大キャンペーンで覆い尽くした。このことで、ドイツ国民はリッペ州選挙は国政の行方を占う一大選挙であるかのように錯覚した。選挙の結果、ナチ党は9議席を獲得して第一党となった。ナチ党は再び上り調子の党であると認識され、沈滞ムードを吹き払った。党には再び献金が殺到し、「党の財政状態は、一晩で根本的に改善された」[注 15][38]。この翌日、シュトラッサーは正式に党から除名された。1月18日、リッベントロップ邸でヒトラーとパーペンの再交渉が行われた。ヒトラーは首相の地位を再度要求したが、パーペンはヒンデンブルクやその息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルク大佐が強い反対を示し困難であると話した。この際にリッベントロップはオスカーとヒトラーの会談を提案した。

ヒンデンブルクは息子のオスカーの言葉に左右されることが多かったから、ヒンデンブルクを動かすためには彼の説得が不可欠であった。それまでは公然とヒトラー嫌いの発言をしていたオスカーを説得するために1月22日にリッベントロップの別荘でヒトラーとオスカーの極秘会談が行われることになった。オスカーは大統領官房長マイスナーを同行し、ヒトラーはゲーリングとヴィルヘルム・フリックを連れてきていた。一時間ほどオスカーとヒトラーは別室で会談し、それから食堂で豆とベーコン料理のみの会食が行われた。別室の会談で何が話されたのかは現在も明確になっていないが、ヒトラーがヒンデンブルクの土地取得に関する疑惑を表沙汰にすると脅迫したものと歴史学者は見ている[注 16]。会食の後、車に乗ったオスカーは「こうなってはやむを得ない。ナチスを政府に迎えざるをえないだろう」とつぶやいた[注 17][39]。パーペンはこの時のオスカーの様子を見て、自らの首相就任を諦めた。以降パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルクに働きかけはじめた。
シュライヒャー内閣崩壊

オスカーとヒトラーの会見の情報はすぐさまシュライヒャーにも知られた[注 18]が、彼に残された手段は限られていた。シュライヒャーはヒンデンブルクに国会の停止と軍部による独裁政権樹立を提案した。しかしヒンデンブルクは拒否し、しかもこの提案は外部に漏洩し、社会民主党や中央党から『憲法違反』『人民の敵』と罵られた。シュライヒャーは憲法を犯す意思はないと弁明したが、この弁明はかえって数少ない与党である国家人民党に見捨てられることとなった。これを見てパーペンは国家人民党と鉄兜団を自派に引き入れた。

1月28日、シュライヒャーは最後の手段として国会の解散をヒンデンブルクに持ちかけ、受け入れられなければ自らは辞職するとした。ヒンデンブルクは再度拒絶し、シュライヒャーの辞職を求めた。しかしヒンデンブルクはなおも迷っており、次のように語った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ヒンデンブルク大統領
「わたしがこれからしようとしていることが正しいかどうかは、私自身にもわからない。だが間もなく(天を指さして)あそこに行けば答えが出るだろう。私はすでに墓の中に片足を突っこんでいるが、後で天国に行ったときこの行為を後悔しないという確信はない」[40]
シュライヒャー首相
「このような背信のあとで、閣下は果たして天国へ行けるでしょうか?」[注 19]—ジョン・トーランド著、永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』2巻 集英社〈集英社文庫〉、113-114頁


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:271 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef