ナチ党の権力掌握
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」とゲッベルスが日記に記すように、ヒトラーの独裁体制となった[注 24][78]

5月1日社会主義インターナショナルの祭典の日(メーデー)であったが、ゲッベルスはこれを「国民労働の日(Tag der nationalen Arbeit)」というイベントにする計画を立て、ヒトラーは50万人の聴衆を前に階級分断をやめて民族共同体として団結する必要性を訴え、ナチスに共感していない者でさえも感動した[76]。その翌日、突撃隊とナチ企業細胞組織はドイツ国内の労働組合の事務所と銀行を襲撃し、財産を接収して、幹部は逮捕された[76]労働戦線によるレクリエーション

1933年4月から5月にかけてドイツ学生協会(ドイツ語版)(ドイツ学生会[76])がルターに因んだ12ヶ条の論題(英語版)を出して、1817年のヴァルトブルク祭(ドイツ語版)に合わせて非ドイツ的な書物が焚書された[79]。この5月10日の焚書はゲッベルスの発案とされてきたが、ライヴァルの国民社会主義ドイツ学生連盟(ドイツ語版)を出し抜くためにドイツ学生会が発案したものである[76]。ゲッベルスは5月10日の焚書演説でユダヤ人が支配してきた知性偏重の時代は終わり、ドイツの革命によってドイツの自由が獲得されるのだと述べた[80]

5月10日には新たな労働組合組織としてロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」が成立し[76]、ナチ党による労働者の組織化が行われた。
一党独裁体制の確立

5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。社会民主党の支持も急速に失われていき、3月から4月にかけて準軍事組織の国旗団は解散し、党支部も閉鎖された[76]。一部の亡命者が6月18日にプラハで機関誌を発行すると、それを口実にドイツでの社会民主党の活動は禁止され、党の資金も没収された[76]

この頃から他の政党も「自己解散」の道を選んでいった。6月26日、フーゲンベルクはロンドン会議において首相や閣僚に相談することなしに、ドイツの植民地返還と東欧植民地獲得を主張した責任をとって辞任した[76]。同時期に諸政党はナチ党に吸収されたり、解散していった。6月27日にドイツ国民戦線(ドイツ国家人民党)が解散した[76]。6月28日にドイツ国家党(旧ドイツ民主党)が、6月29日にドイツ人民党が解散した[76]。鉄兜団も突撃隊に組み込まれた[76]。7月4日、ヒムラー配下のバイエルン政治警察によって幹部を逮捕されたバイエルン人民党も解散に追い込まれた[76]。7月5日、ナチ党以外の最後の政党であった中央党も解散した[76]

7月14日の政党新設禁止法で、ナチ党はドイツで唯一の合法政党となり、一党独裁体制がここに確立した[76]

この頃から医師連盟や教職員会、フライコール、街のコーラスグループから同好会に至るまでありとあらゆる団体は解体され、ナチ党主導によるものに再編成された。ボーイスカウトなどの青少年組織も解体され、党の青少年組織であるヒトラーユーゲントに編入された。これにより、街の社会的な組織はほぼ完全に根絶され、「独裁者が歓迎するあの組織なき大衆へと鋳造された」[81]。出版・放送業界も宣伝省の監督下に置かれ、報道・表現の自由は消滅した。また、ナチズムによる「民族共同体」建設といったスローガンや、ヒトラーユーゲントなどのナチ党組織による運動によってもたらされる高揚感は、青少年たちにナチズム運動の一員であるという実感を与えた[44]

このような動きに大きな抵抗は出ず、ヒトラーの山荘ベルクホーフはヒトラーの姿を一目見ようとする人々で賑った。海外にも熱烈な信奉者が生まれ、ドイツの「正当な要求」を理解する動きが生まれた。

また、国会議事堂放火事件以降継続されていた保護拘禁は市民の間にも恐怖を与え、1933年の夏には「当局に反対しただけで警察の追及を受ける」という認識が広まっていた[82]。さらにゲシュタポが密告を奨励したため、市民の間には友人が密告者かもしれないという恐怖心が芽生えた。また、拘禁された人々のその後が不明であることも恐怖に拍車をかけた[83]

ウィリアム・シェリダン・アレン(英語版)は「ナチスは、人々を威嚇するためにはほとんど何もする必要がなかった。みせしめのために左右両派の人物を攻撃し、残りのすべてを社会の自然な成り行きに任せれば良かったのだ。」と評し、市民は「今更じたばたしても無駄である」という感情に包まれたとしている[84][83]

10月14日、ヒトラーはジュネーブ軍縮会議で突撃隊が軍隊扱いされることになったことに反発し、国際連盟から脱退した。ヴェルサイユ体制からの離脱は多くのドイツ国民の宿願であり、民族投票(ドイツ語版)[注 25]では95.1%がこの措置に賛意を示した。ダッハウ強制収容所に収容されていた2242名中、2145名も賛成票を投じている[86]

一方で、ナチ党組織や行政組織による投票行動への監視は厳しいものであり、投票場への組織的な駆り出しが行われた[87]。11月12日にはナチ党のみを対象とする国会議員選挙が行われた。この選挙では投票率が100%、ナチ党支持率が100%となる地域がいくつか存在している。投票内容自体も監視の対象であり、誰が反対票を投じたかを明らかにすることができた[87]

12月1日には「党と国家の統一を保障するための法律」が制定され、党は国家と一体であると発表された。党の組織はほぼ公的な組織となり、また、ナチ党の地域区分である大管区指導者が事実上の地方支配者となった。
長いナイフの夜ヒトラーとレーム詳細は「長いナイフの夜」を参照

こうした動きの中で、不満を強めていったのが突撃隊の幹部達であった。彼らはこの国民革命が生温いと考えており、第二革命である「褐色革命」[注 26]を求めていた。彼らは政策に不満感を持っていたものの、ヒトラー個人に対する忠誠心は持ち続けた。また幕僚長レームらは、国軍にかわって突撃隊が新たな軍となることを目指していた。国軍首脳は突撃隊を押さえることを要求し、ヒトラーはレームを無任所大臣にして懐柔しようとする一方、「新しい軍は褐色ではなく灰色になる」[88]として突撃隊を牽制した。

一方、親衛隊の長である親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは各州の警察権力を徐々に手に入れていった。1934年4月22日にはプロイセン州警察とゲシュタポの管理権限も与えられ、親衛隊は実質的な全土の警察権力を手に入れた。彼らとヒムラーに権限を譲ったゲーリングは、自分たちを「君側の奸」と見ているレームら突撃隊幹部排除の計画を建てた。

6月頃から突撃隊反乱のうわさが流れはじめ、情勢は不穏になった。6月17日、副首相パーペンがマールブルク大学で突撃隊と暗にナチ党に対する批判演説を行った。ゲッベルスは演説の放送禁止などの措置をとったものの、粗暴で同性愛者が多いなどという突撃隊に不信感を持っていた人々からは広く共感を得た。ヒンデンブルク大統領と国軍も突撃隊に対する何らかの措置を求め、もしもの場合は大統領権限で戒厳令を布告すると通告した。ここにいたってヒトラーも突撃隊粛清の意思を固め、親衛隊に準備を命じた。

6月30日、ヒトラーとの幹部会議の名目で突撃隊幹部達はミュンヘン郊外のホテルに集められていた。この日の早朝、ヒトラーは自ら幹部とともにレームらの逮捕を行った。またベルリンなどでも親衛隊が動き出し、次々に逮捕・処刑した。また前首相シュライヒャーやフェルディナント・フォン・ブレドウ将軍、元組織全国指導者グレゴール・シュトラッサー[34]、マールブルク大学の演説原稿を書いたパーペンの秘書エドガー・ユリウス・ユング(ドイツ語版)などの政敵も逮捕・暗殺された。


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