ナチス・ドイツのフランス侵攻
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第3軍集団

仏第8軍

アルプス方面軍

仏第6軍

ベルギー軍

オランダ軍

戦力

北フランス戦線
141個師団[1]
野戦砲7378門[1]
戦車2445両[1]
航空機5638機[2][3]
兵員335万名
アルプス戦線
兵員30万名

北フランス戦線
144個師団[1]
野戦砲1万3974門[1]
戦車3383両[1]
航空機2935機[4]
兵員330万名
アルプス戦線
兵員15万名
被害者数
ドイツ国
戦死2万7074人
戦傷11万人
行方不明者1万8384人
戦車・装甲車753両
航空機1,236機
イタリア王国
戦死631人
戦傷2631人
行方不明者616人 フランス共和国
イギリス
戦死・戦傷36万人
捕虜190万人
戦車・装甲車5,100両
航空機2,000機
フランスを侵攻するI号戦車II号戦車フランス軍のルノーB1重戦車。多くはドイツ軍を迂回させたマンシュタインの侵攻計画含む4つの軍事プラン

ナチス・ドイツのフランス侵攻(ナチス・ドイツのフランスしんこう)は、第二次世界大戦中の1940年5月に発生したドイツ国防軍をはじめとする枢軸国軍と連合国軍とのベネルクス三国フランス北部での戦闘である。ドイツ軍の電撃戦が最も成功を収めた例と考えられている。

フランスの戦い(フランス語: Bataille de France)、西方戦役(ドイツ語: Westfeldzuge)とも呼ばれる。ドイツ側の作戦名は第1フェイズ(ベネルクス三国、フランス北部侵攻)が黄色作戦(Fall Gelb、ファル・ゲルプ)、第2フェイズ(ソンム川以南への侵攻)が赤色作戦(Fall Rot、ファル・ロート)である。
概要

1939年9月1日にドイツ軍ポーランドに侵攻したことを受けて9月3日、フランスイギリスとともにドイツ宣戦布告したが、フランス・ドイツ国境地帯(アルザス=ロレーヌ)において戦闘はほとんど起こらず、フランス人が言うところの「奇妙な戦争」の様子を見せていた。

開戦から半年以上が過ぎた1940年5月10日、ドイツ軍はオランダベルギールクセンブルクベネルクス三国に侵攻を開始。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前からの計画(ディール計画(英語版))に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力をベルギー方面に進出させ、フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を挟んでドイツ軍と対峙していたが、ドイツ軍はベネルクス三国とマジノ要塞の中間に位置し、フランス軍の防御が手薄となっていたアルデンヌの森から装甲部隊を進撃させた。

5月15日、ドイツ装甲部隊はスダン(セダン)付近でミューズ川を渡り[5]、5月20日には英仏海峡に到達し、英仏軍左翼は包囲されてしまった。5月21日、22日に、ドイツ軍突出部を切り取ってしまうための英仏軍の反撃が行われたが失敗した。5月28日には、ベルギーは降伏した。5月末、包囲された英仏軍の多くはイギリス本土への撤退にかろうじて成功した(ダイナモ作戦)が重装備はすべて失われた。

フランス側は、ソンム河沿いの防衛線ウェイガン・ラインで防衛する計画であったが、ソンム河南岸には既にドイツ軍橋頭堡が存在しており、制空権はドイツ側にあり、戦力比は大幅劣勢であった。

6月5日に、ドイツ軍の南部侵攻作戦「赤色作戦(Fall Rot)」が始まった。

6月10日には、それまで様子を見ていたイタリアが、英仏に宣戦した。

6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言されていたパリに無血入城し、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職し、後継のフィリップ・ペタン元帥はドイツへの休戦を申し入れた。6月22日、コンピエーニュの森において休戦条約が調印された(独仏休戦協定)。フランス軍の大半は武装解除され、アルザス=ロレーヌ、サヴォワニースはそれぞれドイツ、イタリアに割譲されたものの、フランスは主権国家として存続することとなった。しかしパリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下におかれ、ペタンを首班とするヴィシー政権の影響力は南部に限定された上に内政外政ともにドイツの影響下に置かれることとなった。一方、前国防次官シャルル・ド・ゴール准将はイギリスへ亡命して「自由フランス」を結成し、フランス国民に対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼びかけた。
戦いの背景

ヒトラーは、ポーランド侵攻の直後に西部戦線での戦闘を予定していたが、欧州の冬の悪天候は空軍の支援に向いてなく、翌年に延期された。一向に戦闘が始まらないこの戦争を、イギリス人、アメリカ人は「奇妙な戦争」、ドイツ人は「座り込み戦争」と称した。

マジノ線の建設により、フランス領内への直接侵攻が困難となったこともあり、当初のフランス侵攻作戦計画は第一次世界大戦に行ったシュリーフェン・プランを踏襲する予定であった。しかし1940年1月10日、ドイツ空軍第2航空艦隊参謀将校が、第一次黄色作戦での第2航空艦隊運用計画書を所持したまま、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、焼却に失敗した書類の一部が押収されるという事件が発生した(メヘレン事件)。

そのため作戦内容が連合軍側へ漏洩してしまったと想定せねばならず、1月16日にヒトラーは作戦内容の変更を決意した。検討の結果、第一次世界大戦に従軍し西部戦線での悲惨な塹壕戦を経験していて、シュリーフェン・プランに不満を抱いていたヒトラーの後押しもあり、当時中将だったエーリッヒ・フォン・マンシュタインの作戦計画(マンシュタイン計画)が採用された。これはシュリーフェン・プランと同様、ドイツ軍主力はベルギーから攻め込み、英仏海峡に達するというものではあったが、攻勢正面をベルギー北部の平野部に置くシュリーフェン・プランと異なり、ベルギー南部からルクセンブルクまでのアルデンヌ森林地帯を攻勢正面としていた。

マンシュタイン計画に基づいて、ドイツ軍はマジノ線に対抗するC軍集団、ベルギーとオランダに侵攻する歩兵主体のB軍集団と、アルデンヌの森林地帯を抜ける装甲師団主体のA軍集団の三つに分かれ、1940年5月10日一斉に攻勢を開始した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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