ところが徐々に民主化、言論の自由を求める声が高まっていく中、再びナジを政権に戻そうという意見が国民に広まった。1956年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。社会主義者や反共民族主義者との連立政権を組織し、一党独裁体制の解体・ワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリー中立の表明など次々と民主化・自由化政策を打ち出した。しかし、一度は手を引いていたソ連軍が再び侵攻を開始しブダペストを占領するという暴挙に至った。結果、ナジはユーゴスラヴィアの大使館に逃れた。
ナジはその後、交渉のため安全と自由を保障された上で大使館を出たところをソ連軍によって拘束され、ルーマニアにその身柄を移された後KGBによる秘密裁判で1958年6月16日、絞首刑に処された。満62歳没。ナジの遺体はブダペスト郊外の市立墓苑に埋葬された。 ナジに取って代わったカーダール・ヤーノシュは、デモ隊など自由民主化を求める動きを徹底弾圧した。動乱が収まった後、カーダール政権は自主管理の導入など融和政策を取ったものの、ナジはあくまで共産主義を裏切った反党分子として扱われていた。彼が名誉回復されるのは、ソ連でのペレストロイカとその影響によるハンガリー民主化運動を待たなければならなかった。 1989年にナジの遺体の再埋葬式が執り行われ[2]、その際にハンガリー社会主義労働者党は、「ハンガリー史において重要な人物であり、国家救済の為に闘いスターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」と声明を発し、事実上ナジの名誉回復を行った。 ブダペストのマートリスト広場にナジの銅像が建てられていたが、2019年5月に、同市内のヤーサイ・マリ広場に移設された。またパリのペール・ラシェーズ墓地には、ナジの慰霊碑が建てられている。
処刑後
著書
共産主義について(1958年、鏡浦書房、翻訳:小山田義文、有田昌哉)
脚注[脚注の使い方]^ “ハンガリー動乱1956 写真特集:時事ドットコム
^ “ナジ・イムレ改葬式とは”. コトバンク. 2021年6月15日閲覧。
関連項目ウィキメディア・コモンズには、ナジ・イムレに関連するカテゴリがあります。
ハンガリー動乱
外部リンク
『ナジ』 - コトバンク
公職
先代
ヘゲデューシュ・アンドラーシュ
ラーコシ・マーチャーシュ ハンガリー人民共和国閣僚評議会議長
第5代:1956年
第3代:1953年 - 1955年次代
カーダール・ヤーノシュ
ヘゲデューシュ・アンドラーシュ
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