ナショナルギャラリー_(ロンドン)
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1803年にスコットランド人画商ウィリアム・ブキャナンと美術収集家ヨーゼフ・カウント・トゥルホゼスが、それぞれ美術コレクションの購入を打診し、どちらも拒否されているが、後にこれらのコレクションはナショナル・ギャラリーの主要なコレクションとして所蔵されている[6]準男爵ジョージ・ボーモント。トーマス・ローレンスが描いた肖像画。英国美術振興協会の一員でナショナル・ギャラリーの創設に尽力した

ウォルポールの美術コレクション売却話の後、ジェームズ・バリー (James Barry)やジョン・フラクスマンなど多くの芸術家たちが、イギリス絵画が発展するためには他のヨーロッパ諸国の優れた絵画と接する機会が不可欠であるとして、イギリスでの国立美術館の創設を求めた。1805年に貴族階級の美術愛好家たちによって英国美術振興協会 (British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom) が設立されている。この協会のメンバーは所持していた絵画を、美術学校の夏季休暇時に展示会を開催するために年一回貸与し、芸術家たちが絵画に接する場を提供した。しかしながら貸与された絵画には二流以下の作品も多く[9]、英国美術振興協会を不快に感じ、協会のメンバーたちが所有するオールド・マスターの絵画の売却価格を吊り上げる、詐欺まがいの展示会ではないかと考える芸術家もいた[10]。しかし、英国美術振興協会の創設メンバーの一人準男爵ジョージ・ボーモント (en:Sir George Beaumont, 7th Baronet) のように、自身が所有する16点の絵画の寄贈を申し出て、ナショナル・ギャラリーの創設に大きな役割を果たした人物もいる。

1823年には死去したばかりのロシアからロンドンに亡命してきた銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインが生前収集していた著名なコレクションが市場に出た。このコレクションは38点の絵画で、ラファエロの作品やホガースの『当世風結婚』シリーズなどが含まれていた。1823年7月1日にホイッグ党の政治家で後に初代ドーヴァー男爵を受爵するジョージ・エイガー=エリス (en:George Agar-Ellis, 1st Baron Dover) が庶民院でこのコレクションを購入する提案を出した。この提案はボーモントの絵画寄贈の申し出によって弾みがつき、政府によるアンガースタインのコレクション購入と、このコレクションを収蔵するのに相応しい建物の建設が議論された。最終的にはオーストリアからの予期せぬ戦時公債の返済があったことによって、イギリス政府はアンガースタインのコレクションを57,000ポンドで購入することを決定した。
設立と初期ペルメル街100番を描いたドローイング。1824年から1834年にかけてナショナル・ギャラリーがあった場所

1824年5月10日に、アンガースタインが以前所有していたロンドンのペルメル街100番のタウンハウスにナショナル・ギャラリーが開館した。1826年にボーモントがナショナル・ギャラリーに寄贈を申し出ていた絵画コレクションが、続いて1831年には著名な画商で美術品収集家でもあったウィリアム・ホルウェル・カー (en:William Holwell Carr) が遺贈した35点の絵画が収蔵された[11]。開館当初の絵画管理は画商で画家でもあったウィリアム・セギエ (en:William Seguier) 一人が担い、同時にギャラリー全体にも責任を負わされていたが、1824年7月に新しく評議員会が結成され、役割と責任が分担されることとなった。

ペルメル街のナショナル・ギャラリーは常に入場客であふれており、人いきれで蒸し暑く、パリのルーブル美術館などに比べて建物の規模が小さかったこともあって、国を代表する美術館としては相応しくないのではないかという世論が高まった。しかしナショナル・ギャラリーの評議員に就任していたエイガー=エリスは、ロンドン中心部のペルメル街という場所が美術館の存在意義に正しく合致していると評価していた[12]。後にペルメル街100番が地盤沈下を起こし、ギャラリーは一時的に105番に移設されたが、作家アントニー・トロロープは105番の建物を「薄汚く重苦しいちっぽけな建物で、素晴らしい絵画を展示する場所としてはまったく不適格だ」と酷評している[12]。その後、100番、105番ともに、カールトン・ハウス・テラス へと続く道路を敷設するために取り壊されることが決定した[13]

1832年にウィリアム・ウィルキンスの設計による新しい美術館の建築が始まった。チャリング・クロスの以前王室厩舎があったところで、1820年代にトラファルガー広場として改装された場所である。この場所は、富裕層が住むウェスト・エンドと、貧困層が住む東地域との中間に位置するという点に意味があった[14]。その一方で1850年代には、階級階層とは関係なく優れた芸術には誰もが接することができるべきであり、薄汚れたロンドン中心部や欠点だらけのアンガースタイン邸などではなく、サウス・ケンジントン (en:South Kensington) に移転すべきではないかという現実的ではない議論もあった。1857年の議会で「絵画のコレクションそれ自体が目的ではなく、人々に高尚な楽しみを提供する目的にのみ絵画を収集する」という声明が出された[15]
歴代館長による発展

ナショナル・ギャラリー歴代館長
チャールズ・ロック・イーストレイク1855年 - 1865年
ウィリアム・ボクソール1866年 - 1874年
フレデリック・ウィリアム・バートン1874年 - 1894年
エドワード・ポインター1894年 - 1904年
チャールズ・ホルロイド1906年 - 1916年
チャールズ・ホームズ1916年 - 1928年
オーガスタス・ダニエル1929年 - 1933年
ケネス・クラーク1934年 - 1945年
フィリップ・ヘンディ1946年 - 1967年
マーティン・ディヴィス1968年 - 1973年
マイケル・レヴィ1973年 - 1986年
ニール・マグレガー1987年 - 2002年
チャールズ・ソマレス・スミス2002年 - 2007年
ニコラス・ペニー2008年 -

15世紀から16世紀にかけては、イタリア絵画がコレクションの中心だった。開設以来最初の30年間にわたり、絵画収集の権限を持っていた評議委員会が購入したのは盛期ルネサンスの画家たちの作品がほとんどだったためである。この評議員会の保守的な嗜好が貴重な絵画の購入機会を逃すことにもつながり、後にナショナル・ギャラリーが1847年から1850年は1点の絵画も購入できなくなるという混乱の原因にもなっている[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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