ナショナリズム
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

再述するがフランス革命以降のフランスでは「ネイション」とは近代市民社会の普遍的諸理念を共有する人民によって構成される共同体として解される[10]。一方でナポレオンの侵攻によって「ナショナリズム」に覚醒するドイツでは、「ネイション」とは固有の言語歴史を共有する民族の共同体として解された[11]。さらに、ナショナリズムが高揚した19世紀においては、国家(ネイション ステイト)は自由意志を持つ市民が構成員であることを前提としていたが、20世紀前半に大衆社会へと突入すると、権威に盲従する大衆や権威に敵対する労働者も出現する中で、共産主義ファシズムの勃興が彼らを妄信的に国家主義 (Statism) へと駆り立てさせもした。そして、それらの政府では、ナショナリズムを名目に国家の構成員である国民一人ひとりの権利を剥奪・抑圧することすらもなされ、同化の強制などを受容させられていった。こうした類の国家主義がナショナリズムを自称することによっても多義性をもたらしている。
起源

ナショナリズムの起源をめぐっては、大きく二つの見解が挙げられる。ひとつは、ナショナリズムは近代に生じた現象であり、その「起源」を近代以前にさかのぼって求めることはできないとする考え方(近代主義)である。もうひとつは、近代のナショナリズムを成立させるための「起源」が古代より継承されているとする考え方(原初主義)である。

ゲルナー、アンダーソンらは前者の代表的な学者として知られる。前者は前近代においては階級・職業・言語・地理的要因などにより「国民」は分断されており、包括的な共属感情は存在していなかったことを指摘している。それに対して後者はガイウス・ユリウス・カエサルに対し団結し抵抗したガリア人など、ナショナリズムに類似した現象が存在したと主張した。

両者の主張を統合し、新たな包括的な視座を提示したのがスミスである。スミスはエスニックな共同体である「エトニ」という概念を導入し、近代のネイションと近代以前でも存在したエトニを区別するとともにその連続性を説いた。この連続性にかんするスミスの主張は、一面において「ネイションは完全に近代の発明である」というゲルナー、アンダーソン、ホブズボームらの見解に反している。しかし同時にスミスは、過去に存在したエトニが現在まで間断なく存在し続けたとは限らず、またエトニとネイションの水平的な広がりも一致しないとして原初主義をも否定している。
歴史

15世紀すでに萌芽がみられた(教会大分裂#コンスタンツ公会議を参照)。
理念としてのナショナリズム

ナショナリズムは、18世紀後半のフランスから勃興していった。1789年に始まったフランス革命は、これまでの身分制社会の構造(旧体制・アンシャンレジーム)を解体するに至った。周辺諸国による対仏大同盟など革命が危機に陥る中で、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトは、自由かつ平等な国民の結合による国家をうち立て、一時はヨーロッパ大陸を支配した。

ナポレオンによって組織された国民軍は、各地に遠征して凄惨な被害を与えていった。しかし、その一方で、身分制が残存するヨーロッパ各国に、フランス革命が生んだ普遍的理念としての自由・平等・博愛の精神を広めていくことにもなった。したがって、ナポレオンの失脚後は、ヨーロッパ各国の君主は革命の再発をおそれてウィーン体制を構築し、ナショナリズムの抑圧を図った。その点で、この時代のナショナリズムは、国家権力や旧社会秩序からの解放と主体性の回復であり、自由主義といった理念と結びつくものであった。

1848年革命によってウィーン体制が崩壊したことで、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパに新たな状況が生み出された。フランスのナポレオン3世は、初代ナポレオンの威光に依存しつつもナショナリズムの擁護者として振る舞い、イギリスでは、漸進的に自由主義的改革が進められ、国民の諸権利が保障されていった。また、ラインラントピエモンテに勃興した産業資本家は、統一市場の必要性からそれぞれドイツ・イタリアの軍事統一を支持することになり、1860年代から70年代にかけて、ナショナリズムに基づくイタリア・ドイツの武力統一を完了させた。これ以降は、積極的に政府が国民統合を深化させる(国民化)運動としてのナショナリズムへと移行していくことになる。
ナショナリズムと国家

いわゆる帝国主義の時代において、列強間の競争が激化していくと、後発的に国家を形成させて富国強兵殖産興業を図った国家では、自由主義的な運動とナショナリズムが結合するという経験を欠いたまま、国民統合が進められることになった。そのため、例えばドイツにおいては、国内のマイノリティ(カトリック・社会主義者)などを抑圧することでマジョリティをまとめあげるような反・自由主義的(=権威主義的)な国民統合が進められるようになった。また、各国では公教育が導入され、識字率の向上や標準語の定着を通じて、政府が均質な国民を創出していくことに尽力した[12]。加えて、当時の西欧・中欧では工業化の進展の中で、社会・労働問題も深刻化しており、高揚する国際的な社会主義運動(インターナショナルなど)に対抗していくためにも、各国政府は国内の社会・労働問題に積極的に対処し、社会政策の拡充などを通じて労働者を国家につなぎとめようとした。このため、国民と政府とのつながりは一層強固になっていった。こうして国民統合が深度を増していくと、各国の国民は自国の国威発揚に目を向けるようになり、アジアやアフリカでの植民地獲得や他国との軍拡競争、またスポーツ文化などの面においてもナショナリズムの高揚と帝国主義との強い相関が認められるようになった[13]

東欧世界では、ナショナリズムの伝播とともにオーストリア帝国ロシア帝国オスマン帝国などの支配下の民族がそれぞれ各民族による国民国家の概念を持つようになり、諸民族は自治権の強化や独立を求めるようになっていった。オーストリアでは1867年アウスグライヒが行われてオーストリア=ハンガリー帝国が成立したが、両国ともにいまだ多数の少数民族を抱え込んでおり、民族間の軋轢が絶えなかった[14]。弱体化の進むオスマン帝国からは諸民族の独立が徐々に進んだが、多くの小国がナショナリズムに駆られて独立したことで、戦争が頻発したほか列強間の世界戦略にも翻弄される結果となった。こうしてバルカン半島に集約された対立は、第一次世界大戦を引き起こすことになった。第一次世界大戦は、国家同士の衝突であり、総力戦としての性格を有した。戦争維持のために各国においてナショナリズムが鼓舞され、国民(ネイション)と政府(ステイト)はより一体化していった[15]
帝国の解体とアジア・アフリカの動向第一次世界大戦後の領土変更(1923年)

第一次世界大戦中に、社会主義革命が起こったことでロシア帝国が崩壊した。また、ドイツ帝国・オーストリア帝国・オスマン帝国などが敗戦国となった。そのため、パリ講和会議では民族自決の理念のもとに敗戦国における諸民族の独立が承認され、ナショナリズムを肯定することで帝国を解体させた[16]。しかし、戦勝国のイギリス・フランスもまた広大な植民地帝国であったため、アジア・アフリカでの民族自決は否定された[17]

第一次世界大戦中、アジア・アフリカでも総力戦体制のもと、多くの人的・物的資源が動員されていた。こうしたことは、アジア・アフリカの民衆を徐々にナショナリズムに目覚めさせていくことになった。その矢先にパリ講和会議で民族自決が否定されたことは、アジア・アフリカの深い失望を招くものであった。こうして第一次世界大戦後には、それまでナショナリズムの希薄だったアフリカにおいても各種の政治団体が組織され、本格的にナショナリズムが勃興するようになった[18]。このように植民地・半植民地とされた従属地域では、まずは民族の解放が最優先の課題とされたが、そうした中で世界社会主義革命をめざすソ連が、その戦略の一端としてアジア・アフリカの民族運動に理解を示す行動を取ったため、こうした地域ではナショナリズムと社会主義が結合する事態が生じた。そのため、中国ベトナムの共産党などのように、コミンテルンの主導で結成された社会主義政党がやがて民族運動の中心勢力となり、第二次世界大戦後には国家建設を担うということも起こった[19]

一方、ヨーロッパの新独立国においては、ナショナリズム間で深刻な衝突が起こっていた。新独立国は国民国家として構想され、どの国においても主要民族が人口の大半を占めていたものの、いずれの国家も国内に少なくない数の非主要民族を抱えており、国民統合を進めるため強硬な同化政策や排除を進める国家側と、それに抵抗する少数派とが激しく対立した。またこれらの少数派民族の中には、旧帝国時代には支配層だったドイツ人マジャール人などが含まれており、彼らは国土の縮小した自民族の国家と連携して戦後秩序の改正を求めるようになった[20]。さらにこの時期には各国のナショナリズムからはじき出されたユダヤ人の間で、以前からあったナショナリズムが大きく盛り上がりを見せるようになったが、彼らは主な居住地域であるヨーロッパ大陸内に国家を建設した経験を持たず、このため民族のルーツであるエルサレムおよびパレスチナ周辺に自民族国家の建設を目指す、いわゆるシオニズムが盛んとなった[21]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:92 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef