ナショナリズム
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「ナショナリズム」の用語の元となった「ネイション」(英語: nation) の語源はラテン語の "n?t??" で「生まれ」の意味を持ち、人々、親族、部族、階級、群衆などの意味を持つようになった[2]

ナショナリズムの一義的な定義は困難であるが、アーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義した[3]。この定義は完全ではないが議論の出発点としてある程度のコンセンサスを得ている[4]

スタンフォード哲学百科事典は「ナショナリズムとの用語は通常は2つの事象を記述するために使用されている。(1)ネイションの構成員が、彼らのナショナル・アイデンティティを気にかけている際の様子 (2)ネイションの構成員が、自己決定の達成または持続を求めている行動」と定義した[5]

丸山眞男は「ナショナリズムとは、ネーションの統一、独立、発展を志向し、推し進めるイデオロギーおよび運動」と定義した[6]

なお「民族主義」や「国家主義」等の、対応する日本語訳については、その性質上、海外研究者の研究において言及されることはまずない[7]
概要

ナショナリズムには二つの大きな作用があり、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用と、政治的共同体の掌握する領域内に存在する複数の文化を支配的な文化に同化しようとする作用がそれである。前者は19世紀の国民主義運動にその例を見て取ることができ、後者の例は「公定ナショナリズム」としていくつかの「国家」において見出すことができる。

しばしばナショナリズムはパトリオティズム(愛国心、郷土愛)と混同されるが、社会共同体としての「郷土(パトリア)」への愛情であるパトリオティズムという言葉を、近代になって登場したナショナリズムと峻別する意見もある[8]。しかし、「郷土」という言葉を「生まれ育った土地の自然風土」と捉える意味において、「郷土の自然風土」に限定して向けられる愛着は通常、パトリオティズムとは呼ばれない。現在ではネイションがパトリオティズムの対象となる場合が多いが、これはむしろゲルナー、アントニー・D・スミスベネディクト・アンダーソンらが指摘するように、ゲマインシャフト的共同体がゲゼルシャフトであるネイションへと再編成されていったのと軌を一にして、各地域ごとに無数に存在した帰属対象としてのパトリアを、ナショナリズムが文化的同化作用によって、ネイションへと帰属対象を集約していった結果として理解される。

こういったネイションの近代性は、国家主義の立場からしばしば忘れられたり無視されたりしがちであるが、ネイションとナショナリズムの近代性と作為性については、均質なネイションは近代における社会と産業の必要性から生まれたという点で、学問的にはほぼ決着を見ている。ゲルナーとスミスの近代性についての師弟対決は、ネイションが全くの無から発明されたのか、それとも前近代から何らかの遺産を相続しているのか、という点をめぐって行われたのであり、古代・中世においてネイションが存在したのかについての論争ではない。結局のところ、身分の差が歴然としており越境が困難な社会において、あらゆる社会階層を横断する共属感情を形成することは、不可能ではなくともきわめて困難であり、たとえそのような感情が一部で形成されたとしても、それを後世引かれる国境線の内側すべてを覆うほどの広がりを持たせる手段を近代以前の社会は欠いていた[注釈 1]

しかし、このことは必ずしもゲルナーやエリック・ホブズボームの言うように、ネイションとナショナリズムが近代に無から生み出されたことを意味するわけではない。スミスは、近代以前に存在した歴史や神話を核にしてネイションは生まれたのだとする。スミスは近代以前の身分を横断しなかったり、地理的広がりを持たず、ネイションのような政治単位となりえなかった共同体を「エトニ」と呼び、あるエトニが周辺のエトニを糾合し、自らを基準に同化していった結果成立したのが「ネイション」であるとした。このスミスの理解は、いかに小規模なゲマインシャフト的集団が広範で雑多なゲゼルシャフトに変じたかという点でアンダーソンと相互に補完しあっており[9]、現在のナショナリズム論の基本的な考えとなっている。
左翼ナショナリズム詳細は「左翼ナショナリズム」を参照

理性人権の重視を前提としたナショナリズム。
ナショナリズムの多義性

「ネイション」という概念は、本来的には国家と結びつくものではなく、むしろローマ帝国期には「市民」と対立的に「よそ者」というニュアンスで用いられた。中世ヨーロッパにおいても、この語によって想起されるのは宗教会議などに集まる同郷集団であり、やはり国家との結びつきがあったわけではない。ネイションと国家が結びつけられるのは、ヨーロッパにおいて主権国家体制が確立する17世紀頃だと考えられる。17世紀のイギリス革命においては、「ネイション」の概念は聖職者やある特定の集団のみを指し示すのではなく、幅広い人民を包含するようになった。ただし、フランスの絶対王政のもとでは、主権者である国王に対する臣民としてネイションが理解されていた。この場合、ネイション(国民)と政府は結びついているが、あくまでも身分制社会の枠組みの中でのものであり、ネイションや政府を構成する一人一人が人権を有する対等な存在にはなっていない。1789年に勃発するフランス革命は、フランスにおける近代国家形成の契機となった。すなわち、身分制度が否定され、近代市民社会の諸権利が保障される中で、基本的人権という普遍的な権利を持つ一人ひとりが対等な形でネイション、そして政府を構成する時代へと突入した。その国家(国民とその政府)という共同体(ネイション ステイト)が、ある普遍的な理念に基づいて形成されるものなのか、それとも歴史・伝統に根ざした民族に基づくものなのか、それとも他の新たな観点から説明できるものなのか、これらが錯綜してナショナリズムの定義を難しくさせている。

「ナショナリズム」という語が多義化する理由は、前述の通り「ネイション」 (nation) という語を、各時代地域においてさまざまに解釈したことが一因となっている。再述するがフランス革命以降のフランスでは「ネイション」とは近代市民社会の普遍的諸理念を共有する人民によって構成される共同体として解される[10]。一方でナポレオンの侵攻によって「ナショナリズム」に覚醒するドイツでは、「ネイション」とは固有の言語歴史を共有する民族の共同体として解された[11]。さらに、ナショナリズムが高揚した19世紀においては、国家(ネイション ステイト)は自由意志を持つ市民が構成員であることを前提としていたが、20世紀前半に大衆社会へと突入すると、権威に盲従する大衆や権威に敵対する労働者も出現する中で、共産主義ファシズムの勃興が彼らを妄信的に国家主義 (Statism) へと駆り立てさせもした。そして、それらの政府では、ナショナリズムを名目に国家の構成員である国民一人ひとりの権利を剥奪・抑圧することすらもなされ、同化の強制などを受容させられていった。こうした類の国家主義がナショナリズムを自称することによっても多義性をもたらしている。
起源

ナショナリズムの起源をめぐっては、大きく二つの見解が挙げられる。ひとつは、ナショナリズムは近代に生じた現象であり、その「起源」を近代以前にさかのぼって求めることはできないとする考え方(近代主義)である。もうひとつは、近代のナショナリズムを成立させるための「起源」が古代より継承されているとする考え方(原初主義)である。

ゲルナー、アンダーソンらは前者の代表的な学者として知られる。前者は前近代においては階級・職業・言語・地理的要因などにより「国民」は分断されており、包括的な共属感情は存在していなかったことを指摘している。それに対して後者はガイウス・ユリウス・カエサルに対し団結し抵抗したガリア人など、ナショナリズムに類似した現象が存在したと主張した。

両者の主張を統合し、新たな包括的な視座を提示したのがスミスである。スミスはエスニックな共同体である「エトニ」という概念を導入し、近代のネイションと近代以前でも存在したエトニを区別するとともにその連続性を説いた。この連続性にかんするスミスの主張は、一面において「ネイションは完全に近代の発明である」というゲルナー、アンダーソン、ホブズボームらの見解に反している。しかし同時にスミスは、過去に存在したエトニが現在まで間断なく存在し続けたとは限らず、またエトニとネイションの水平的な広がりも一致しないとして原初主義をも否定している。
歴史

15世紀すでに萌芽がみられた(教会大分裂#コンスタンツ公会議を参照)。
理念としてのナショナリズム

ナショナリズムは、18世紀後半のフランスから勃興していった。1789年に始まったフランス革命は、これまでの身分制社会の構造(旧体制・アンシャンレジーム)を解体するに至った。周辺諸国による対仏大同盟など革命が危機に陥る中で、革命の理念を継承したナポレオン・ボナパルトは、自由かつ平等な国民の結合による国家をうち立て、一時はヨーロッパ大陸を支配した。

ナポレオンによって組織された国民軍は、各地に遠征して凄惨な被害を与えていった。しかし、その一方で、身分制が残存するヨーロッパ各国に、フランス革命が生んだ普遍的理念としての自由・平等・博愛の精神を広めていくことにもなった。したがって、ナポレオンの失脚後は、ヨーロッパ各国の君主は革命の再発をおそれてウィーン体制を構築し、ナショナリズムの抑圧を図った。その点で、この時代のナショナリズムは、国家権力や旧社会秩序からの解放と主体性の回復であり、自由主義といった理念と結びつくものであった。

1848年革命によってウィーン体制が崩壊したことで、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパに新たな状況が生み出された。


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