ナショナリズム
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1848年革命によってウィーン体制が崩壊したことで、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパに新たな状況が生み出された。フランスのナポレオン3世は、初代ナポレオンの威光に依存しつつもナショナリズムの擁護者として振る舞い、イギリスでは、漸進的に自由主義的改革が進められ、国民の諸権利が保障されていった。また、ラインラントピエモンテに勃興した産業資本家は、統一市場の必要性からそれぞれドイツ・イタリアの軍事統一を支持することになり、1860年代から70年代にかけて、ナショナリズムに基づくイタリア・ドイツの武力統一を完了させた。これ以降は、積極的に政府が国民統合を深化させる(国民化)運動としてのナショナリズムへと移行していくことになる。
ナショナリズムと国家

いわゆる帝国主義の時代において、列強間の競争が激化していくと、後発的に国家を形成させて富国強兵殖産興業を図った国家では、自由主義的な運動とナショナリズムが結合するという経験を欠いたまま、国民統合が進められることになった。そのため、例えばドイツにおいては、国内のマイノリティ(カトリック・社会主義者)などを抑圧することでマジョリティをまとめあげるような反・自由主義的(=権威主義的)な国民統合が進められるようになった。また、各国では公教育が導入され、識字率の向上や標準語の定着を通じて、政府が均質な国民を創出していくことに尽力した[12]。加えて、当時の西欧・中欧では工業化の進展の中で、社会・労働問題も深刻化しており、高揚する国際的な社会主義運動(インターナショナルなど)に対抗していくためにも、各国政府は国内の社会・労働問題に積極的に対処し、社会政策の拡充などを通じて労働者を国家につなぎとめようとした。このため、国民と政府とのつながりは一層強固になっていった。こうして国民統合が深度を増していくと、各国の国民は自国の国威発揚に目を向けるようになり、アジアやアフリカでの植民地獲得や他国との軍拡競争、またスポーツ文化などの面においてもナショナリズムの高揚と帝国主義との強い相関が認められるようになった[13]

東欧世界では、ナショナリズムの伝播とともにオーストリア帝国ロシア帝国オスマン帝国などの支配下の民族がそれぞれ各民族による国民国家の概念を持つようになり、諸民族は自治権の強化や独立を求めるようになっていった。オーストリアでは1867年アウスグライヒが行われてオーストリア=ハンガリー帝国が成立したが、両国ともにいまだ多数の少数民族を抱え込んでおり、民族間の軋轢が絶えなかった[14]。弱体化の進むオスマン帝国からは諸民族の独立が徐々に進んだが、多くの小国がナショナリズムに駆られて独立したことで、戦争が頻発したほか列強間の世界戦略にも翻弄される結果となった。こうしてバルカン半島に集約された対立は、第一次世界大戦を引き起こすことになった。第一次世界大戦は、国家同士の衝突であり、総力戦としての性格を有した。戦争維持のために各国においてナショナリズムが鼓舞され、国民(ネイション)と政府(ステイト)はより一体化していった[15]
帝国の解体とアジア・アフリカの動向第一次世界大戦後の領土変更(1923年)

第一次世界大戦中に、社会主義革命が起こったことでロシア帝国が崩壊した。また、ドイツ帝国・オーストリア帝国・オスマン帝国などが敗戦国となった。そのため、パリ講和会議では民族自決の理念のもとに敗戦国における諸民族の独立が承認され、ナショナリズムを肯定することで帝国を解体させた[16]。しかし、戦勝国のイギリス・フランスもまた広大な植民地帝国であったため、アジア・アフリカでの民族自決は否定された[17]

第一次世界大戦中、アジア・アフリカでも総力戦体制のもと、多くの人的・物的資源が動員されていた。こうしたことは、アジア・アフリカの民衆を徐々にナショナリズムに目覚めさせていくことになった。その矢先にパリ講和会議で民族自決が否定されたことは、アジア・アフリカの深い失望を招くものであった。こうして第一次世界大戦後には、それまでナショナリズムの希薄だったアフリカにおいても各種の政治団体が組織され、本格的にナショナリズムが勃興するようになった[18]。このように植民地・半植民地とされた従属地域では、まずは民族の解放が最優先の課題とされたが、そうした中で世界社会主義革命をめざすソ連が、その戦略の一端としてアジア・アフリカの民族運動に理解を示す行動を取ったため、こうした地域ではナショナリズムと社会主義が結合する事態が生じた。そのため、中国ベトナムの共産党などのように、コミンテルンの主導で結成された社会主義政党がやがて民族運動の中心勢力となり、第二次世界大戦後には国家建設を担うということも起こった[19]

一方、ヨーロッパの新独立国においては、ナショナリズム間で深刻な衝突が起こっていた。新独立国は国民国家として構想され、どの国においても主要民族が人口の大半を占めていたものの、いずれの国家も国内に少なくない数の非主要民族を抱えており、国民統合を進めるため強硬な同化政策や排除を進める国家側と、それに抵抗する少数派とが激しく対立した。またこれらの少数派民族の中には、旧帝国時代には支配層だったドイツ人マジャール人などが含まれており、彼らは国土の縮小した自民族の国家と連携して戦後秩序の改正を求めるようになった[20]。さらにこの時期には各国のナショナリズムからはじき出されたユダヤ人の間で、以前からあったナショナリズムが大きく盛り上がりを見せるようになったが、彼らは主な居住地域であるヨーロッパ大陸内に国家を建設した経験を持たず、このため民族のルーツであるエルサレムおよびパレスチナ周辺に自民族国家の建設を目指す、いわゆるシオニズムが盛んとなった[21]

第一次世界大戦の戦後処理は総体としてうまくいったとは言えず、かなりの地域において不満がくすぶっている状態が続いていた。この不満の受け皿としてナショナリズムは盛んとなり、やがてファシズムの台頭を招くこととなった。ファシズムとナショナリズムの間の関係には様々な説が存在するが、両者の間に密接な関係があったということは定説となっている[22]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本では、大正時代にナショナリズムが原因で関東大震災朝鮮人虐殺事件が起きた。[独自研究?]
植民地の独立

各植民地におけるナショナリズムは、それまで絶対的な存在だった宗主国が第二次世界大戦によって大きな損害を受け支配体制が揺らいだことを背景に、第二次世界大戦後急速に勢力を拡大していった。また第一次世界大戦と同様第二次世界大戦においても各植民地から多くの兵士が出征しており、戦地で見聞を広めた彼らが帰国したこともナショナリズムの拡大を助けた。また大戦中に設立された国際連合は、信託統治領の自治および独立を目指すよう施政権者に義務を課す[23]など、アジア・アフリカでの民族自決を基本的に支持するスタンスを取っていた。こうしたことから各植民地ではナショナリズムの高揚とそれに伴う独立運動の激化がみられるようになり、経済の変動により植民地の保持が経済的に利益をもたらさなくなってきたことも相まって、第二次世界大戦後、アジア・アフリカの植民地は次々と独立を果たしていった。

しかし新独立国においては、国家と国民との乖離が深刻なものとなっていた。特にアフリカにおいては、国境線はアフリカ分割時に各宗主国によって恣意的にひかれたものであり、民族分布とは多くの場合一致していなかった。各国政府は国民の形成を急いだが、そのため国内に存在する各民族のナショナリズムを「部族主義」(トライバリズム)と呼んで非難し抑圧することがしばしば行われた。一方で各国政府の指導者は自民族を重用し政府内を自民族で固めるといったことをしばしば行い、このため国民の形成はほとんどの国家において掛け声倒れに終わってしまい、逆に支配民族と被支配民族との激しい抗争が繰り返されるようになった[24]

また逆に、アジアやラテンアメリカの新独立国においては、権威主義的な政権がナショナリズムを鼓吹し、独裁的な政権運営の元で経済の成長を目指す、いわゆる開発独裁体制がしばしば表れた[25]
冷戦後の世界.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ソビエト連邦の崩壊ユーゴスラビアの崩壊


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