ナザレのイエス
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名前詳細は「イエス・キリスト#名称」、「イエス (人名)」、および「イエス#イエス(人名)」を参照

「イエス」、古典ギリシア語再建音では「イェースース」(現代ギリシア語ではイイスス)?Ιησο?? (Ieso?s)は、ヘブライ語の「イェーシュア」からの転写形である。「イェーシュア」は「ヨシュア」???????? (Yeshua)(正確には「イェホーシューア」 ?????????? (Yehoshua))の短縮形であり、原義は「ヤハウェ(神)は救い」であって、モーセの後継者ヨシュアと同名である[14]ユダヤ人のあいだではごく一般的な人名であった[15][* 2]

「ナザレの」とは『福音書』と『使徒言行録』でイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれていることによる[* 3]。イエスという名は当時めずらしくなく[* 2]、姓の風習もなかったため、しばしば出身地を含めた呼び方で区別されていた[16][* 4]キリスト教においてはイエス・キリストと呼ばれる[* 5]
生涯新約時代のパレスチナマグダラのマリアとイエス(ヴォイチェフ・ゲルソン画)ヨハネによるイエスの洗礼(グイド・レーニ画)

イエスの誕生については、彼の生涯を知る最重要資料である『福音書』の各書で記述が異なる。もっとも古く成立した福音書である『マルコによる福音書』では、イエスの伝道から記述を始めており、生誕については触れられていない。イエスは処女から生まれたことになっているが、母マリアの処女懐胎は、『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』に記されており、『マルコ』や『ヨハネによる福音書』には記述がない。生誕の地については、『ヨハネ』には記述はなく、『マタイ』と『ルカ』によれば、ベツレヘムで誕生したことになっている。これはイスラエルの救済者メシアは、古代イスラエルの王ダビデの町であるベツレヘムで生まれるという予言が聖書にあることに由来するとされる。『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』によれば、父ヨセフはダビデの末裔とされるが、メシアは彼の家系に生まれるという伝承預言があり、これも家系図からわかる通り成就しているとされる。

誕生と同様に、イエスの幼年期や少年期についても記述は少なく、例えば『ルカ』2章41-52節において、彼が12歳の時すでに旧約聖書を理解していたという旨の記述が見られるものの、それ以前についてはごく簡潔にまとめられているのみである。外典と位置付けられる『トマスによる福音書』には、正典よりも多くの幼少時代についての記述が見られる(イエスの幼少時代も参照)。

福音書が主として触れているイエスは、宗教活動を始めた時期からである。その中で彼は、様々な教えを説き、奇蹟を起こした結果、弟子の集団が構成されたことになっている。福音書には、イエスがさまざまな病人の治療を行い、重い皮膚病患者を癒し、死者をよみがえらせたなど、多数の奇蹟が記されている。また、宣教の際に比喩(たとえ話)を多く用いたことも記されている。

イエスには多くの弟子ができ、福音書はペトロを筆頭とする「12使徒」をその代表としている。12使徒はすべて男性だが、女性であるマグダラのマリアが筆頭の弟子だったという説もある[* 6][* 7]。『フィリポ福音書』を初めとするグノーシス文書では、マグダラのマリアがイエスのもっとも愛した弟子で、彼の伴侶と呼ばれているという記述がある[17][18]。ただし、グノーシス文書自体は、単独の史料としての信頼性には疑問がもたれている[19]

1947年に始まる死海文書の発見以来、イエスと当時のユダヤ教の一派であるエッセネ派との関係について多くの説が出されたが、その後の研究によって彼が同派の人間でないことは確実になった[20]。エッセネ派からの影響については、その可能性はあるものの、あまり重要でない点に関することにとどまる[20]。また、イエスに洗礼をさずけた洗礼者ヨハネは、エッセネ派が帰属したクムラン教団の出自であったとする説があるが[21]、これも確証はない[22]
イエスの教え
福音書の記述と高等批評

福音書には、イエスの言葉として「山上の垂訓[* 8]など群衆に対して語った説教、弟子など限られた対象に向けて語った言葉、当時の宗教指導者らとの問答といったかたちで、多くの言葉が収められている。福音書の記述を史実と認める立場においては、福音書の中にイエスの教えについて多くの言説を認めることが可能である。一方、いわゆる高等批評[* 9]においては、福音書は「イエスの言行録」ではなく「宣教文書」であり、イエスが語ったとされる言葉がイエスに帰属するかを疑うというのが基本的立場である。この立場においてイエスに帰属できる発言は数少ない。荒井献はイエスの発言にさかのぼれる言葉は少ないながら、イエスの特徴として、既存の権威に頼ることなく自らの言葉で断定的に語り[23]、当時、一般に交流を深めることが忌避されていた人々(蔑まれ、虐げられていた人びと)に対しても分け隔てなく接し[24]、社会の底辺に視座を据え権力を批判した[25]ことを認めている。
福音書からみた「史的イエス」

「史的イエス」の解明のため最も重要な福音書[19]の記述によると、イエスの教えは「形式的律法主義を批判し、神の愛による救済と隣人愛を説いた」「(ユダヤ教的終末論に基づいた)神の国の実現の時が迫っていると宣べ伝えた」ことであると言える[26]
新約聖書から見た史的イエスの生涯

歴史的に見ると新約聖書の著作の中でこの世に存在していたことが確認できているのは、ナザレのイエスとパウロである。史的イエスの概略とパウロ自身によるものであることがはっきりしている書簡に基づいて、新約聖書から見た「史的イエス」について見ることが可能である。

ナザレのイエスは紀元前6年ないし紀元前4年ごろベツレヘムに生まれる。

バプテスマのヨハネの団体と何らかの関係があった。

ナザレのイエスは他界する3年ほど前、ガリラヤで宣教を開始する。

ナザレのイエスは紀元後30年ごろ[27]刑死によって他界する。

ナザレのイエスはキリストだとする集団が生まれた。

パウロはユダヤ教徒であった。

パウロは多数のキリスト教徒を取り締まり、牢に入れた。

パウロはキリスト教徒となった。

パウロは54年ごろコリント人への第一の手紙を記し[28]、書簡の中で、死んだはずのナザレのイエスに出会ったことがあるとしている[29](伝聞として書き記しているところでは、イエスが死人の中から起されたこと、死んだはずのナザレのイエスに12弟子を含む500人以上の人が出会ったことがあることを聞いたとしている)。

福音書等の成立年代と著者


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