ナサニエル・グリーン_(軍人)
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1770年、グリーンはコヴェントリーに移り、グリーン家の所有する鋳物工場の経営にあたった。父親の死の直前である。ここで彼は、まず公立学校の創設を要求し、同じ年にロードアイランド植民地議会議員に選出された。議員には1771年、1772年、1775年にも再選された。だが実際のところ、彼が議員であったかどうかについては疑問の余地がある。なぜなら彼の私文書にはそういった記述がないし、また彼と同じロードアイランド出身で同じ名前の同時代人が何人かいたからである。グリーンは植民地人の間に多かったホイッグすなわち愛国者に強く共鳴していた。
結婚

1774年、グリーンはブロック・アイランドのキャサリーン・リトルフィールド・グリーンと結婚した。彼女の愛称はキャティ。キャティは10歳の時に母に死なれ、イースト・グリニッジで叔父叔母夫婦に育てられた。彼女の叔父ウィリアム・グリーンはホイッグ党の指導者でありロードアイランドの知事を務めた。彼女の叔母キャサリーン・レイはベンジャミン・フランクリンと親しい友人であり1751年から1784年まで文通相手でもあった。グリーンとキャティはイースト・グリニッジにあるグリーン農園の「最良の居間」で結婚式を挙げた。そこには今でも結婚式の招待状が額に入れられて壁に掛けられている。

キャティとの間には5人の子供が生まれた。ジョージ・ワシントン(1776 - 1793)、マーサ・パティ・ワシントン(1777 - 1861)、コーネリア・ロット(1779 - 1865)、ナサニエル・レイ(1780 - 1859)、ルイーザ・キャサリーン(1783 - 1831)である。6番目の子供キャサリーンは1785年に夭折した
民兵

1774年8月、グリーンは地元の民兵隊立ち上げに貢献し、この部隊が10月にはケント防衛隊として認可された。グリーンは片足を軽く引きずっていたので、その入隊には異議が出た。グリーンが軍隊の戦術に関する多くの高価な本を手に入れ始め、兵法について独学で学び始めたのがこの時期だった。12月には民兵法を改訂するために議会から指名された委員会に参加した。グリーンが軍務に就きたがったために1773年にはクエーカー教から除名されたと推測されてきた。しかしクエーカー教からの離脱はもっと時間を掛けてのものであり、実際にはキャティとの結婚から始まった。当時、非クエーカー教徒との結婚は除名の対象だった。
独立戦争の初期

1775年5月8日、1兵卒だったグリーンはボストン包囲戦に対応して作られたロードアイランド監視軍の准将に昇進した。6月22日には、大陸会議から大陸軍准将に指名された。ジョージ・ワシントンは1776年3月、ボストン開放後のボストン市司令官に彼を任命した。グリーンは1775年10月と1776年1月に、当時の大陸会議ロードアイランド代表のサミュエル・ウォードに手紙を書き、その中で独立宣言に賛成した。1776年8月9日、彼は新しく少将に昇進する4人の中に選ばれ、大陸軍ロングアイランド部隊の指揮に就いた。彼はブルックリンハイツの東に防衛に適した場所を選び、パットナム砦(現在のグリーン砦公園のある場所)の防壁と塹壕を作った。ロングアイランドの戦いの時は重病のために参加できなかった。グリーンはロードアイランドのフリーメイソンでもあり、その宝石を独立戦争の間ずっと身につけていたが、これは仲間のラファイエット侯爵からの贈り物だった。

グリーンはニューヨークからの撤退とイギリス軍が使えなくなるようにその町を焼くことを助言した者達の中でも目だっていた。彼はハドソン川ニュージャージー側にあるリー砦の指揮官となった。1776年10月25日イズラエル・パットナム将軍の跡を継ぎ、リー砦とは対岸のワシントン砦の指揮官となった。彼はワシントンからワシントン砦を極限まで守りぬくよう命令されており、大陸会議も10月11日に同じ決議を採択した。しかし後にワシントンは文書で彼の裁量に任せると書き送った。グリーンは砦を直接指揮していたロバート・マゴー大佐にもう一度命令を送るまで防衛に努めること、イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍の攻撃に備えて砦を補強することを命じた。それにも拘わらずワシントン砦とリー砦を失ったことでグリーンが責められた。しかしその責任を感じていたワシントンの信頼を失うことはなかった。

トレントンの戦いでは、グリーンは2つの大陸軍部隊の1つを指揮した。そこでの勝利の後、彼は即刻プリンストンを攻めるようワシントンに進言したが、作戦会議で却下された。結果的にはプリンストンの戦いで勝利し、大陸軍の士気を上げた。ブランディワインの戦いでは予備軍を指揮した。ジャーマンタウンの戦いでは、ジョン・サリバン指揮下の右翼と距離を取りすぎて、戦闘にかかるタイミングを合わせ損なった。その失敗で彼はワシントンの信頼を失うかもしれないと思った。しかし、彼の部隊が到着したときから事態を大きく改善することができ勇名を上げた。


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