ナウル共和国
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ナウル人がナウル島に渡来した時期は考古学言語学の調査が十分に行われていないため詳細は不明で、紀元前2000年ごろに西方からカヌーによって行われたと推測されている[8][3]。そのため近隣のマーシャル諸島キリバスと同系統のミクロネシア系の文化を持つ社会が存在していたとされる[8][3]。またメラネシア系文化の影響も多分に受けており、古代にメラネシアとの交渉があったと推測されている[8]
植民地時代

1798年イギリス捕鯨船ハンター号の船長ジョン・ファーンが来島し、島をプレザント島(Pleasant Island)と命名[9]。その後1830年代1840年代には、食料と水を求める捕鯨船やビーチコマー(浮浪白人)と呼ばれる人々が島を訪れた[9][10]

1888年4月にドイツ国保護領となる[9][11][3]1899年ニュージーランド地質学者アルバート・エリス(英語版)がリン鉱石の鉱床を発見する[12][注釈 2]。ドイツは採掘権をイギリス資本の「パシフィック・フォスフェート・カンパニー」に与え、1907年に採掘が開始された[9][13]

第一次世界大戦でドイツがイギリスに宣戦布告したことで1914年11月にオーストラリア軍はナウル島を占領し[9][14]、戦後の1920年にはイギリス・オーストラリア・ニュージーランドの3国を施政国として国際連盟委任統治領となった[9][15][3]

1942年8月に日本軍が占領[16][8]。1,200人の島民がチューク諸島に強制連行され、多くの島民が死亡した[16][17]。第二次世界大戦後の1947年には再びイギリス・オーストラリア・ニュージーランドの3国を施政国として国際連合信託統治領となった[16][3]
独立後

1966年に内政自治を獲得[16][8]1968年1月31日には独立してイギリス連邦に加入した[18][3]1980年代には、リン鉱石の輸出で得た莫大な収入により太平洋地域で最も高い生活水準を有していた。しかし、その後のリン鉱石の枯渇によって政府は深刻な財政危機に瀕した[3]2004年からの改革によって状況は多少改善され、リン鉱石の2次採掘が開始されたことで輸出による収入も増加傾向にある[19]

1999年9月14日には国際連合に加盟。

2000年代にはパシフィック・ソリューションが問題になり、国際社会から非難が集まった[6]。詳細は「パシフィック・ソリューション」および「タンパ号事件」を参照

2021年7月にはクック諸島前首相のヘンリー・プナ太平洋諸島フォーラム(PIF)事務総長に就任したことを受け、ミクロネシア圏からの事務総長選出を含む改革を要求するため他のミクロネシア圏の4カ国とともにPIFから離脱すると表明[20]したものの、翌2022年2月にはブナの早期退任を期待し離脱手続きを一時撤回する形で矛先を収めている[21]
地理ナウル島の衛星写真詳細は「ナウルの地理」を参照

ソロモン諸島ギルバート諸島の間、バナバ島の西方300キロメートル、シドニーの北北東3930キロメートルに位置する[22]。国土面積は21km2[22][5][3]。隆起サンゴ礁島で、最高点のコマンド・リッジでも標高が65メートルと平坦である[5][6]
気候

ケッペンの気候区分では熱帯雨林気候 (Af) に属している[23]。平均年降水量は2000ミリメートル程度である。ただし年による変動が大きく[5][6]、例として、1930年1940年には4000mm、1950年には300mmを記録している[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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