ドン・シャーリー
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シャーリーはフロリダ州ペンサコーラで生まれ、小さい頃にはクラシック・ピアノの有望株と謳われた。伝統的なクラシック音楽を弾いていた初期のキャリアはあまり注目されていなかったが、後に様々な時代の音楽を混ぜ合わせることで成功を手にした。1960年代の間、シャーリーは熱心にコンサート・ツアーを行ったが、行き先にはディープサウスも含まれていた。この時、シャーリーはニューヨーク在住だった用心棒 (nightclub bouncer) トニー・"リップ"・ヴァレロンガを雇って随行させた。このふたりの旅路は、2018年に『グリーンブック』として映画化された[1][2]。作品は第91回アカデミー賞アカデミー作品賞を獲得したほか、シャーリー役のマハーシャラ・アリアカデミー助演男優賞が贈られた[3]スタインウェイでしか演奏しないというポリシーをもっていた[4]
経歴
キャリア開始まで

シャーリーは1927年1月29日にフロリダ州ペンサコーラで生まれたが[5]、両親は共にジャマイカ系移民(英語版)で、母ステラ・ガートルード(Stella Gertrude、1903年 - 1936年)は教員、父エドウィン・S・シャーリー(Edwin S. Shirley、1885年 - 1982年)は米国聖公会司祭だった[6]。彼の出生地はキングストン (ジャマイカ)と勘違いされていることもあるが、これはレーベル側がシャーリーをジャマイカ生まれと宣伝していたためである[5]。甥のエドウィンによれば、レコード会社は「黒人の学校に通った黒人には見向きもしない地域で、彼が認知されるように」(to make him acceptable in areas where a Black man from a Black school wouldn’t have got any recognition at all.) 、シャーリーはヨーロッパで音楽を学んだのだと偽証していたという[7]

シャーリーがピアノを学び始めたのは2歳の時だった[8]。彼は短期間ヴァージニア州立大学(英語版)とテキサス州のプレイリー・ビュー・カレッジ(英語版)に通った後[7]ワシントンD.C.のカトリック・ユニバーシティ・オブ・アメリカ(英語版)に移ってコンラッド・ベルニエ(英語版)とジョージ・サディアス・ジョーンズ (George Thaddeus Jones) に師事し、1953年に音楽で学士号を得た[9]。シャーリーは「ドクター・シャーリー」(Dr. Shirley) の名でも知られていたが、実際に2つの名誉博士号を持っていた[10]
1945年から1953年のキャリア

1945年、18歳のシャーリーは、ボストン・ポップス・オーケストラと共にチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』を演奏した[8]。1年後、彼はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して自身の曲を演奏している[8]。1949年、彼はハイチ政府の招聘を受けてポルトープランス万国博覧会で演奏し、翌週にはドュマルセ・エスティメ(英語版)大統領とル・ゴアセ大司教 (Archbishop Le Goise) の求めに応じこれを再演した[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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