ドン・キホーテ
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あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2014年8月)(使い方

前編風車に突進するドン・キホーテ(ギュスターヴ・ドレによる挿絵)

ラ・マンチャのとある村に貧しい暮らしの郷士が住んでいた。この郷士は騎士道小説が大好きで、村の司祭と床屋を相手に騎士道物語の話ばかりしていた。やがて彼の騎士道熱は、本を買うために田畑を売り払うほどになり、昼夜を問わず騎士道小説ばかり読んだあげくに正気を失ってしまった。狂気にとらわれた彼は、みずからが遍歴の騎士となって世の中の不正を正す旅に出るべきだと考え、そのための準備を始めた。古い鎧を引っぱり出して磨き上げ、所有していた痩せた老馬をロシナンテと名付け、自らもドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。最後に彼は、騎士である以上思い姫が必要だと考え、エル・トボーソに住むアルドンサ・ロレンソという田舎娘を貴婦人ドゥルシネーア・デル・トボーソとして思い慕うことに決めた。

用意がととのうと、彼はひそかに出発した。冒険を期待する彼の思いと裏腹に、その日は何も起こることなく宿屋に到着した。宿屋を城と思いこみ、亭主を城主だと思いこんでしまっていたドン・キホーテは、亭主にみずからを正式な騎士として叙任してほしいと願い出る。亭主はドン・キホーテがいささか気の触れた男であることを見抜き、叙任式を摸して彼をからかうが、事情を知らない馬方二人が彼の槍に叩きのめされてしまい、あわてて偽の叙任式を済ませた。

翌日ドン・キホーテは、遍歴の旅にも路銀や従士が必要だという宿屋の亭主の忠告に従い、みずからの村に引き返すことにした。だが途中で出会ったトレドの商人たちに、ドゥルシネーアの美しさを認めないという理由で襲いかかり、逆に叩きのめされてしまう。そこを村で近所に住んでいた百姓に発見され、ドン・キホーテは倒れたまま村に帰ることになった。

打ちのめされたドン・キホーテの様子を見た彼の家政婦と姪は、この事態の原因となった書物を残さず処分するべきだと主張し、司祭と床屋の詮議の上でいくつか残されたものの、ほとんどの書物が焼却され、書斎の壁は塗りこめられることになった。やがてドン・キホーテが回復すると、書斎は魔法使いによって消し去られたと告げられ、ドン・キホーテもそれに納得した。遍歴の旅をあきらめないドン・キホーテは近所に住む、教養の無い農夫サンチョ・パンサを、手柄を立てて島を手にいれ、その領主にしてやるという約束のもと、従士として連れていくことにした。ドン・キホーテは路銀をそろえ、甲冑の手直しをして二度目の旅に出た。

やがてドン・キホーテとサンチョは3?40基の風車に出くわした。ドン・キホーテはそれを巨人だと思いこみ、全速力で突撃し、衝突時の衝撃で跳ね返されて野原を転がった。サンチョの現実的な指摘に対し、ドン・キホーテは自分を妬む魔法使いが、巨人退治の手柄を奪うため巨人を風車に変えてしまったのだと言い張り、なおも旅を続けるのだった…
後編

遍歴の旅から戻ったドン・キホーテはしばらくラ・マンチャで静養していた。その間目立った奇行も見られなかったのだが、一月ほど後に司祭と床屋が訪れると、やはり狂気は治癒していないことが判明した。そんな中、ドン・キホーテの家にサンソン・カラスコという学士が訪れる。カラスコが言うには、ドン・キホーテの伝記が出版され(すなわち『ドン・キホーテ 前編』)、広く世の中に出回っているのだという。ドン・キホーテ主従とカラスコは、伝記に書かれた冒険について、また記述の矛盾についてひとしきり語り合うのだった。

やがてドン・キホーテとサンチョは三度目の旅立ちの用意をかため、出発する。ドン・キホーテの姪や家政婦は引き止めようとするが、カラスコはむしろ彼の出発を祝福して送り出した。

旅立ちを果たした主従が最初に向かった先は、エル・トボーソの村であった。ドン・キホーテが三度目の出発にドゥルシネーアの祝福を受けたいと考えたためであった。彼はサンチョに、ドゥルシネーアを呼んでくるように頼むが、サンチョは困惑する。ドゥルシネーアは架空の人物であるし、モデルとなったアルドンサ・ロレンソのこともよくは知らなかったためである。

結局サンチョは、エル・トボーソの街から出てきた三人の田舎女を、ドゥルシネーアと侍女だと言い張ることにした。その結果、ドン・キホーテは田舎娘をドゥルシネーアと見間違えることはなかったが、自分を憎む魔法使いの手によってドゥルシネーアを田舎女の姿に見せる魔法をかけられているものだと考え、彼女らの前にひざまずき、忠誠を誓ったがまったく相手にされなかった。ドン・キホーテは、心の支えであったドゥルシネーアにかくも残酷な魔法がかけられたことを繰り返し嘆いた。

やがて主従は、「鏡の騎士」と名乗る、恋に悩む遍歴の騎士と出会う。ドン・キホーテは鏡の騎士と意気投合し、騎士道についてさかんに語り合うが、鏡の騎士が「かつてドン・キホーテを倒した」と語ったのを聞くと、自らがドン・キホーテであると名乗り、彼の発言を撤回させるために決闘を挑む。勝負はドン・キホーテが勝利した。鏡の騎士の乗っていた馬が駄馬であったためである。落馬した鏡の騎士の兜を取ってみると、正体は学士のサンソン・カラスコであった。カラスコはドン・キホーテを決闘で打ち負かすことによって村に留まらせることを目論んでいた。騎士らしい決闘によればドン・キホーテに言うことを聞かせられるだろうと考えたからである。しかしドン・キホーテの勝利により企ては失敗に終わった。当のドン・キホーテはと言うと、目の前のカラスコは魔法使いが化けた偽者ということにして片づけてしまった。

やがて、ドン・キホーテ一行のところに国王への献上品のライオンをのせた馬車が通りがかり、これを冒険とみたドン・キホーテは、ライオン使いに対して、ライオンと決闘したいと願い出る。その場にいたものすべてがドン・キホーテを止めようとするが、ドン・キホーテは聞く耳を持たず、さかんにライオン使いを脅すので、やむなくライオン使いは檻の鉄柵を開け放つ。何度もライオンを大声で挑発するドン・キホーテだが、ライオンはドン・キホーテを相手にせずに寝ころんだままだったので、ドン・キホーテは不戦勝だとして納得し、これから二つ名を「ライオンの騎士」とあらためることにした。

やがて主従は、立ち寄った先でカマーチョという富豪の結婚式に居合わせる。カマーチョは金にものを言わせてキテリアという女性と結婚しようとしていたが、結婚式の場にキテリアの恋人であるバシリオが現れ、狂言自殺をしてキテリアとカマーチョの婚姻を破棄させる。その場にいた大勢の客がもめて大騒ぎになろうとしたところを、ドン・キホーテが仲裁に入り、事なきを得た。バシリオとキテリアはドン・キホーテに感謝し、彼を住まいに招いた。彼はそこに三日滞在したが、その間に二人に思慮深い二三の助言を残した。

なおも旅を続けた二人は、鷹狩りの一団の中にいた公爵夫人に出会う。彼女はドン・キホーテとサンチョを見るやいなや、すぐに自分の城に招待した。というのも、公爵も夫人も『ドン・キホーテ』前編をすでに読んでおり、ひとつこの滑稽な主従をからかってやろうと思ったからである。そんな企みには全く気づかないドン・キホーテは、公爵夫妻の城で遍歴の騎士にふさわしい壮大な歓待を受け感動するが…。
評価

『ドン・キホーテ』が出版された当初は滑稽本として高い評価を受けており、ドン・キホーテのキャラクターも道化としてのイメージで受けとられた。17世紀初頭には早くも、スペイン本国や南米で行われたいくつかの祭りで、ドン・キホーテに扮した人物が人々の笑いをとったという記録が残っている。

セルバンテスの伝記研究と共に実証的な作品研究が始まったのは、18世紀のイギリスからである。1738年にセルバンテスの伝記が初めて出版されたのを期に研究の気運が高まり、それに呼応する形でスペイン本国での実証研究が始まった。この時代の解釈の特徴は、『ドン・キホーテ』から、騎士道に代表される古き悪習を諷刺し、やがて打倒につながったという道徳観や、批判精神を読み取っていることである。だが19世紀に入ると、これとも全く異なる読み方が登場する。

19世紀の解釈はロマン主義によるもので、ドストエフスキーの解釈が典型的である。彼は『作家の日記』の中で『ドン・キホーテ』を「人間の魂の最も深い、最も不思議な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、ここに見事にえぐり出されている」、「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」(ちくま学芸文庫版、小沼文彦訳より引用)と評した。19世紀はこのような、ドン・キホーテの感情を尊重した悲劇的な解釈が主流になったが、現在ではこの見方もP・E・ラッセルなどによって批判されている。

20世紀の文芸評論家ミハイル・バフチンは、ドン・キホーテをカーニバル文学の大傑作であるとして評価している。そしてこの文学の系譜を忠実に受け継いだのが、19世紀のドストエフスキーだと述べた。

2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得した。
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