ドワイト・D・アイゼンハワー
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ジョン・アイゼンハワーは陸軍で勤務し、次に作家になり、ベルギー大使を務めた。ジョン・アイゼンハワーの息子、デイヴィッド・アイゼンハワーは、リチャード・ニクソンの娘のジュリー1968年に結婚した[3]
軍歴FT-17軽戦車と少佐時代のアイゼンハワー

1915年、陸軍士官学校を卒業した。テキサスジョージア1918年まで歩兵と共に、また1918年から1922年まではメリーランド州キャンプ・ミードなどで戦車隊と共に軍務に就いた。第一次世界大戦への従軍を願い出たが、許可されなかった。

1917年に大尉、1920年に少佐に昇進し、次いで1922年から1924年の間にパナマ運河地帯フォックス・コナー将軍の副官の地位にあり、軍事面で彼から大きな影響を受け、優れた管理能力を身に付けた。1925年1926年にはカンザス州フォートレヴェンワースで指揮官および参謀学校に勤務し、1927年までジョージア州フォートベニングで大隊指揮官を務めた。

1920年代の終わりから1930年代の初めまで、アイゼンハワーの軍歴は停滞した。階級も16年間少佐のままであった。アイゼンハワーはアメリカ戦碑委員会に就任、その後ジョン・パーシング将軍によってワシントンD.C.の陸軍戦争大学での奉職を余儀なくされた。そして次に、ジョージ・V・モゼリー将軍(国防副長官、1929年 - 1933年)の副官を務めた。

その後、アイゼンハワーは1935年まで陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサー大将の主任補佐武官を務め、1935年に陸軍参謀総長を退任して少将に戻ったマッカーサーがフィリピン政府の軍事顧問を務めることになった時、マッカーサーの希望で副官となった[4]。マッカーサーは着任後、アメリカ軍の威容を示すためにマニラ市内でパレードをすることを思いつき、アイゼンハワーに計画を立てさせ、各方面に折衝を行わせた。ところが、このパレード計画はフィリピン・コモンウェルス政府に無断で行われていたため、フィリピン大統領マニュエル・ケソンが抗議を行った。マッカーサーは副官であるアイゼンハワーのミスであると弁解し、アイゼンハワーをしかりつけた[4]。以後、マッカーサーはアイゼンハワーの細かい失敗を指摘しつづけ、嫌になったアイゼンハワーが転任希望を出してもそれを握り潰し続けた[4]。その後、1936年にようやく中佐に昇進した。

その後1940年1月にアメリカへ戻り、ワシントン州フォート・ルイス(英語版)の第15歩兵連隊勤務となった[5]。これ以降は順調な出世を重ね、11月には第3師団の参謀長、1941年3月に大佐に昇進して第9軍団参謀長、6月にはテキサス州フォート・サム・ヒューストン(英語版)で第3軍の司令官ウォルター・クルーガー中将の参謀長に任命された[6]。アイゼンハワーは1941年9月に准将に昇進した。アイゼンハワーの管理能力は注目されたが、第二次世界大戦へのアメリカの参戦前夜においては、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は極めて薄かった。

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃の後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に任命された[5]。アイゼンハワーは陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に任命され、数日後には少将に昇進した[6]。アイゼンハワーはここで対独作戦計画を立案した。アイゼンハワーの計画は、イギリスを基地として、戦略爆撃・海軍艦艇の大量起用・大規模な上陸作戦を行うことで西北ヨーロッパを制圧するというものであった[7]。マーシャルはこの計画を承認し、その際の指揮官としてアイゼンハワーを登用することを決めた[8]。まもなく中将に昇進したアイゼンハワーは、来るべきヨーロッパでの反攻作戦のためにイギリスに向かうことになった。
ヨーロッパ戦域連合国軍指揮官ポツダム会談時右からオマール・ブラッドレー、アイゼンハワー、ジョージ・パットン


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