ドレッド・スコット対サンフォード事件
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今日の常識から見ればこのような文書のやり取りは司法に対する不適切で一方的な接触と見なされる可能性が強い。19世紀の寛大な常識の下であっても司法の場にいる個人に対する政治的介入は不適当と見られたであろう。
判決

連邦最高裁判決は1857年3月6日に下された。裁判長のロジャー・トーニーは裁判所の見解を述べ、それぞれの判事が判決に賛成したか、あるいは反対意見を述べたかを付け加えた。全部で6人の判事が判決に賛成し、サミュエル・ネルソン(英語版)は判決に同意したがその理由には同意せず、ベンジャミン・カーティス(英語版)とジョン・マクレーンは異議を唱えた。

判決はまず初めにこれが司法権に属するかを判断した。アメリカ合衆国憲法第3条第2説第1項は「司法権は異なる州の市民間の紛争に及ぶ」と規定している。スコットは、アメリカ合衆国憲法が採択されたときの用語の理解に従うと、憲法の意味するところの「或る州の住民」ではない、それ故に連邦裁判所に告訴することは出来ないとした。さらにある人間が或る州の市民であるかは、憲法第3条の目的に照らして厳密に連邦の問題である。このことは、いかなる州も「州法」の目的に応じて或る個人に州の市民権を与えることができるが、第3条の目的に照らして或る個人に市民権を与えることはできないことを意味している。換言すれば、連邦裁判所は連邦の憲法にある「或る州の市民」という言葉を解釈する時に、或る州が市民権を与えた個人に踏み込む必要は無かった。むしろ、誰が第3条の目的に従って或る州の市民であるかを決定するのは連邦裁判所である。

かくして、ミズーリ州がスコットを市民と認めたかは重要ではない。トーニーは次のように要約した。従って、憲法の採択以来、いかなる州も外国人を帰化させることによりその者に連邦政府の下の一つの州の市民に確保される権利と特権を与えることはできない。ただし、その州だけが関係する場合に限り、その者は市民としての権利を疑いも無く付与され、憲法と州法が付け加える全ての権利と免責権が与えられる。

このことは次を意味していた。いかなる州も、憲法の採択以降に成立した州法令によって、アメリカ合衆国憲法によって生まれた政治的社会に新しい一員を加えることはできない。

それ故に唯一の関連する問題は、憲法が批准された時点で、スコットは第3条の意味する範囲でどこかの州の市民と考えられたかである。判決によれば、憲法の起草者は全てのアフリカ系アメリカ人を次のように見ていた。劣等な存在であり、社会的にも政治的にも白色人種と交わることに適しておらず、それだけ劣っていれば白人に尊重される権利を有しない。

判決はまた、「不快の羅列」を開陳し、スコットの請願を認めることの結果として生じる恐れを述べた。そのことは黒人種の者達に彼らが望むときに他の州に入る権利、公衆の場や私的な場で市民が話すような主題に付いて自由に話す権利、公衆の集会を開き政治的な問題を論じる権利、および彼らが行くところどこでも武器を所有し持っていく権利を与えることになる。

スコットはミズーリ州の市民ではなかった。それ故に連邦裁判所はこの訴訟について公聴する権限を欠いていた。

しかし、裁判所が権限を欠いていたという結論にも拘らず、スコットは自由人ではないと結論付けた。スコットが暫くミネソタに住んでいたとしても、そこが自由領土だと宣言したミズーリ協定が連邦議会の法制化の権限を超えていたからであった。判決は、それら領土を獲得しその中に政府を創る議会の権限は制限されており、アメリカ合衆国憲法修正第5条で、奴隷所有者が奴隷を自由領土に連れて入ったからといって、奴隷所有者からその奴隷のような財産を奪う法律を排除していたことを根拠にした判断に拠っていた。判決は、この問題が法廷に掛けられるものではないが、領土議会は奴隷制を禁じる権限がないというところまで踏み込んだ。

この判決は、連邦最高裁が議会の立法を違憲と判断したことでは2回目のものであった(1回目はこの時より54年前の「マーベリー対マディソン事件であった)。反対意見を表明したカーティスは、一旦裁判所がスコット事件を公聴する権限がないと判断したからは、そのとるべき唯一の処置は棄却することであり、その告訴に有利となる判断を下すことではないという根拠で判決の一部は付随的なものであると攻撃した。カーティスとマクリーンによる反対意見は、判決がミズーリ協定とその効力を覆したことであり、そのどちらも事件を解決するためには不要であるとも攻撃した。また、憲法の枠組みを作った者達は誰も、合衆国議会が連合会議によって制定された北西部条例、あるいは北緯36度30分より北では奴隷制を禁じるその後の法律にある反奴隷制条項の採用に対して憲法を根拠にした反対をしなかったことも指摘した。さらにこれらの議論の中にアフリカ系アメリカ人が市民にはなれないという主張に対し憲法の根拠は無いとした。憲法の採択のときに、黒人は13州のうち10州で投票ができた。このことはかれらがその州の市民であるだけでなく、合衆国の市民であることを意味したと主張した。

この判決は奴隷制に対する論争的意味合いで通常考えられているが、この事件の判決は財産権に対する重要な意味を持っていた。諸州は他の州の者に属する個人的財産を州法を根拠に所有権を主張することができない、また所有権は法制が変わったからといって無くならない。この解釈は裁判所の判断に共通であり、奴隷制に厳密に結び付けて解釈されしばしば見過ごされている。
結果

この判決は、当時の多くの者が奴隷制を拡張する方向に進めたと考えた頂点のものであった。領土の拡張とその結果としての新しい州の加盟は、新しい州が奴隷州として加盟するに連れて、昔からあるミズーリ協定が北部での政治的力を失って行く事を意味していた。かくして、民主党の政治家達はミズーリ協定の撤廃を求め、「妥協」を自然に終わらせたカンザス・ネブラスカ法の成立した1854年に最終的に成功したことになった。カンザス・ネブラスカ法は北緯40度までの新たに加盟する州は奴隷州になるか自由州になるかを決定することを許した。ここで「ドレッド・スコット事件」により、トーニーの下の最高裁は新領土への妨げられない奴隷制の拡張を許そうとした。

トーニーはこの判決が今回限りで奴隷制の問題を落ち着かせると信じたが、反対の結果を生んだ。それは北部での奴隷制に対する反対運動を強化し、民主党を派閥で割り、南部の奴隷制擁護者の中の脱退主唱者を勇気付けてさらに大胆な要求をさせ、また共和党の勢力を強めた。
反応

奴隷制に反対する者からの判決に対する反応は激しいものであった。「オールバニ・イブニング・ジャーナル」紙は、国が礎を築いた自由の原則に対する攻撃であり、自由州に対する奴隷州勢力の勝利として判決を非難するときに2つの主題を結びつけた。共和国における347,525人の奴隷所有者が一昨日、大きな成功を成した。浅はかな男の考える成功である。奴隷所有者は最高裁とアメリカ合衆国の衡平法を人間の奴隷制の伝道者に変えた。ジョン・ジェイジョン・ラトリッジオリバー・エルスワースジョン・マーシャルおよびジョセフ・ストーリ[注釈 2]の学びと美徳によって世界中の評判となり、この国の全ての者に頼られるものとなった司法にとっての運命の日!陰謀は完成されようとしている。共和国の法律はこの一握りの奴隷所有者の手に握られている。アメリカ合衆国上院がそれを保障している。政府の執行権力は彼らのものである。ジェームズ・ブキャナンは先週の水曜日に議事堂の階段で彼らに対して忠誠の宣誓を行った。この国の最高法規は彼らの要請にそうよう実体が与えられ、国の憲法の下にアフリカ人の子孫はアメリカ合衆国の市民ではないし、なることも出来ないとあえて宣言した。1787年の北西部条例は無効となった。奴隷制は地方のことではなく、自由の土地にその犠牲者を追い求め、奴隷の行く所どこでもまとわりつき、奴隷を連れて帰っていく。アメリカ議会は国土で人を奴隷にすることを妨げる権力が無くなった。領土の住民自身はその中にいる者から束縛を除く力がなくなった。有色の人間はアメリカ合衆国の裁判所に告訴もできない!

この編集者は好戦的な注釈を加えて文を終えた。共和政治を愛し、貴族政治を憎む全ての者よ、あなたの自由を脅かしあなたの人間性を試すことになる闘争を肝に銘じよ!

多くの奴隷制度廃止運動家および幾らかの奴隷制擁護者は、この問題が続いて起こる裁判に持ち上げられれば直ぐに、諸州はその境界内で奴隷制を禁じる権限が無い、その領域内に入って来る奴隷の解放を定める州法、あるいは奴隷制を禁じる州法は共に違憲であるとする準備ができていると信じた。エイブラハム・リンカーン1858年6月16日、イリノイ州スプリングフィールドで行った「分裂した家」演説(House Divided Speech)でこの危険性を強調した。総合して考えるに、我々にはもう一つの困った小さな隙間がある。それを我々は間もなく、他の最高裁判決で埋められるのを見るかもしれない。その判決はアメリカ合衆国憲法が或る州にその境界内から奴隷制を排除することを認めないと宣言している。我々は安らかに横たわってミズーリ州の人々がその州を今にも自由にしようとしている夢をみる、そして目覚めてそれに変わる現実、最高裁がイリノイ州を奴隷州にしたという現実に気づくことになる。

「次の」ドレッド・スコット判決の恐れは、奴隷制が当時の境界内に収まっている限りは奴隷制を認めて満足していた北部の多くの者に衝撃を与えた。

さらにスティーブン・ダグラスのような北部の民主党員を難しい立場に置いた。民主党の北部派閥は「人民主権」の旗の下に1854年のカンザス・ネブラスカ法を支持し、議会がそれらの領土への奴隷制の拡張を禁じなかったとしても、そこの住人が領土議会でそれを禁じることができると論じていた。ドレッド・スコット判決はそれができないことを正面から規定していた。たとえ厳密に言ったとしてもその問題は法廷に持ち出すこともできなかった。

ダグラスは、法廷の判決に直接反論せず、その自由原理で障害に打ち勝とうと試みた。ダグラスは、たとえ或る領土が奴隷制を禁じることができないとしても、地元の治安組織が奴隷制を守ろうとしなければ制度そのものが定着し得ないと主張した。

この原理は北部民主党員の恐れを和らげたが、同じ仮定から異なる結論に辿り着いた南部民主党員には全く受け入れられなかった。彼らが論じるように、もし敵対的な領土政府がその権利を守ることを拒むことで領土内に奴隷を連れてくる権利に反対できるならば、連邦議会は全ての領土に連邦奴隷法を制定する干渉を行うに違いないというものだった。南部民主党員はもし連邦議会がそうしなければ、脱退するという脅しを結びつけた。

同時に民主党は共和党を無法な反乱者と特徴づけ、この国の法として最高裁の判決を進んで受け入れようとはしないことで国の分裂を生もうとしているとした。北部の奴隷制に反対する者の多くは、ドレッド・スコット判決を拘束性のあるものと見なすことを拒むために法学的な議論を提案した。裁判所の判決は、連邦裁判所がスコットはミズーリ州の市民ではないために、スコット事件の公聴をする権限がないという命題で始まっていたとした。それ故にミズーリ協定に関する判断は不要(すなわち、司法の判断権を超えている)であり、無効(すなわち傍論にすぎない)であると論じた。ダグラスはこの立場に立つリンカーンを攻撃した。ダグラスは次のように論じた。リンカーン氏は、ドレッド・スコット判決の故にアメリカ合衆国最高裁判所に戦いを挑もうとしている。私はあの裁判所の判決に従おうと思う。我々の憲法に対する最高司法機関の最終結論に。

南部の奴隷制擁護者はさらに進んで、判決は合衆国の存続のために基本的なものであると主張した。リッチモンド・エンクワイヤラー紙は次のように書いた。ここに政治的法律の問題があり、他のものを深く巻き込んでいるが、憲法と合衆国、諸州の平等と南部の権利の主唱者と支持者のために、党争をやる者と狂信者によって吹き込まれた非道な原理と対比しまた拒否することできっぱりと結論付けられた。それは法学者の判断でもおそらくかって無いくらい公平で偏見のないものである。国の競技者が議会の議場で戦って得た褒章は、適当な審判により、それを勝ち得た者に遂に与えられた。この「国」が勝利を得た。「党派抗争」は叱責され、奴隷制度廃止運動はよろめき圧倒された。我々の制度に新たな支持柱が加えられた。南部に対する攻撃者と合衆国の敵はその拠点から駆逐された。愛国者の原理が宣言された。偉大な国民の保守的な合衆国を救う感情が宣言された。

しかし、奴隷制の支持者の中に判決を合衆国内でのその権利を擁護したと見なす者もいた一方で、共和党員が非難するように国中に奴隷制を広げる単なる一歩と見なす者もいた。彼らは奴隷を所有する権利と所有者が選ぶどこへでも奴隷を連れて行ける権利に対する制限は違法である確信し、次の10年でボストン・コモンで奴隷のセリが見られると誇らしげだった。これら南部の急進派は民主党を割る用意があり、その後の出来事が示すように国を割る準備も出来ていた。


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