ドルショック
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^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.179 … 1949年のアメリカ政府の金保有額は245億ドルで、それが1970年には111億ドルになっていた。
^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … ニクソン声明の本質は、ドルが世界の通貨を支えるという責任を放棄するとともに、ドルの切り下げをはかるというもの。
^ 但し12月19日から308円の固定相場制に戻るまで360円は基準値としては12月18日までは存在した。スミソニアン協定で16.88%の切り上げ率の数字は360円からの切り上げ率で、その12月半ばの為替レーの実勢は1ドル320円前後であった。
^ 前テキサス州知事。知事時代にケネディ第35代大統領暗殺事件で大統領と同乗して重傷を負い九死に一生を得た。この時は民主党員でニクソンの抜擢で財務長官に就任した。同じテキサス州出身のジョンソン第36代大統領とは親しく、後に共和党にくら替えして1980年大統領選挙に立候補したがレーガンに敗れた。その後政界を引退。コナリーの葬式には大統領を辞任したニクソンが参列している。
^ 後のFRB議長。『ボルカールール』の提唱者。
^ この大胆な経済政策は大胆さを好むニクソンをも驚かす内容であった。後にニクソンは「彼があれほど思い切った提案をするとは予測していなかった」と回顧録で述べている。
^ このCEAは大統領に助言するための経済学者が集められているが、歴代委員長には、その後グリーンスパン、バーナンキ、イエレンがFRB議長になっており、またこの時のFRB議長バーンズもかつてはCEA委員長であった。
^ 後にコナリーの後任として財務長官を務め、その後レーガン大統領時代に6年半にわたって国務長官を務めた。
^ この時のFRB議長バーンズは、米国が一方的に停止を先行させるのはまずいとして、金交換停止がまかり間違えば米国経済や資本主義の凋落を示す歴史的な事件になりかねない懸念を持っていた。
^ 毎日新聞元外信部長であった大森実は、この会議の影の立案者は大統領特別顧問で国際経済政策会議事務局長のピーター・ピーターセンであったとしている。そして面白いことに、作業チームに入ったマクラッケン、シュルツ、コナリーともそれぞれ担当した「賃金物価凍結」「減税」「金交換停止と輸入課徴金」にはもともと反対論者であったと述べている。
^ これは必ずしも要求ではなく話の中での駆け引きのようで、佐藤首相の日記には「一度には無理だと思ふと本人もいっておる」と記して交渉前の感触を探る動きであった。ちなみにこの後の記者会見でコナリーは「調整の幅について要請はしていない」と述べている。何とも勝手な話だが、翌12日に帰国前に急遽会いたいとのことで首相と会っている。礼儀上の帰国の挨拶の後に、「ケネディ大統領が暗殺された時の様子や当人のケガの様子等をきく」と日記に記している。
^ この会議が特異なのは、各国とも蔵相、中央銀行総裁、事務方の3名に出席が絞られてそれ以外の事務方の入場を制限したことである。ただ一行に加わった行天財務官室長は、日本語が正確に同時通訳されているかチェックするとして空いた通訳ブースに入り込み、傍聴できた。
^ この16.88%の切り上げ率は、スミソニアン会議2日目の全体会議の合間に、コナリーが水田に話し合いを求め、会議室の近くの標本室のような小さな部屋で、柏木顧問、行天財務官室長とが同席して行われた話し合いで決まった。この席で最初コナリーは18%台、水田は17%未満で平行線を辿った。水田は「17%という数字は日本にとって不吉な数字で、昭和初期の金本位制に戻った際の数字で、井上準之助蔵相はその時に暗殺された」といい、ケネディ暗殺に遭遇して自身も重傷を負った経験を持つコナリーはその「暗殺」という言葉でさすがのタフな交渉人もそれ以上は言えなかったという。コナリーからそれなら「いくらなら良いのか」と尋ねられて「308円」と答えてそこで了解が取れたという。「1971年?市場化とネット化の紀元?」 土谷英夫著 p.86 参照
^ 一国の大統領の独断(アメリカ合衆国議会への提案も事前説明も無かった)といった意見もあるが、そもそも大統領には専権事項があり、当然独断で決断することが許される存在である。もう1つのニクソンショックもそうだが、独断だから出来たことである。しかもこの新経済政策は、10%の輸入課徴金を課すという自由経済の旗頭であるはずの超大国が保護主義そのもののタブーとされた政策をも加えており、あくまで一時的な緊急対策であって国内から反対は無かったし、ショック後のニューヨーク株式市場のダウ平均は前週の859ドルから、ニクソン演説の国内景気刺激策を好感して急騰して17日には900ドルに迫る動きであった。
^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.368 … ただしこの言葉は他からの引用で、Joan Hoff , Nixon Reconsidored (newyork 1994) から引用している。
^ 「昭和後期10人の首相」(山岸一平 著、2008年3月発行、日本経済新聞出版)p.69-71 … これはニクソン大統領と佐藤首相との間で認識にズレがあったと言われている。この翌年1970年6月に日米繊維交渉が決裂して、71年1月に自主規制案を出したが拒否されて、このニクソンショック後の1971年10月にようやく妥結している。当時日本側には何故アメリカがこのような規制をかけてくるのかが分からなかった。原因は1968年の大統領選挙でニクソン陣営が繊維業者の多い南部の票を取り込むために約束した選挙公約であったことである。
^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.400 … ただしこの言葉もジャーナリスト、ヘンリー・ブランドンからの引用である。
^ またそのニクソン発言を根拠に、「日本の終戦記念日を意図的に狙ったのではないか」とする見解も存在する(中村政則著『戦後史』(ISBN 4-00-430955-7)p.140参照)。ただし声明は日本時間で8月16日午前10時で、またアメリカ人にとっての戦争が終わった日は8月15日ではなく8月14日である。
^ 2014年7月24日に外務省が公開した外交文書の中に、1971年3月12日付けでニクソン大統領が佐藤首相に送った書簡が公開され、この中で、日本側が自主規制案を出したことに「本当に驚いた」として「双方が満足できる交渉は不可能と思われる」「こうした方法であなたに手紙を書くことを遺憾に思う」と述べて、日本政府の対応を批判した書簡であった。
^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … この日は定例閣議の日で、直前にロジャーズ国務長官から大統領の重大声明があるのでボイス・オブ・アメリカ (VOA) を聞いてほしいとの連絡があった。

出典^ a b 世界史史料 第11巻 20世紀の世界II(岩波書店) p.342-343
^ ドル体制の崩壊と日本経済(週刊東洋経済 1971年8月28日号)
^ a b c 現代アメリカ(土居丈朗著、2010年10月発行)p.61-64

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