ドリー・パートン
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女優として『9時から5時まで』、『The Best Little Whorehouse in Texas 』、『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』、『A Smoky Mountain Christmas 』、『マグノリアの花たち』、『Wild Texas Wind 』、『ノミオとジュリエット』、『Straight Talk 』、『Unlikely Angel 』、『Blue Valley Songbird 』『Joyful Noise 』に出演した[11][12]
来歴
初期

テネシー州セビア郡で農業従事者および建設作業員の父ロバート・リー・パートン(1921年-2000年)と母エイヴィ・リー(旧姓オウエンズ)(1923年-2003年)のもとに12人きょうだいの4番目として生まれた[13]。パートンのミドル・ネームは母方の祖先レベッカ・ダン・ウィッテド(1861年-1930年)から名付けられた[14][15]。パートンはこの頃の家族について「極貧」であったと語っている[16]。パートンが生まれた際、父はオートミール1袋を出産費用として支払った。パートンはこの時期の貧困生活を『Coat of Many Colors 』、『In the Good Old Days (When Times Were Bad) 』など初期の曲に反映させている。一家はペンテコステ派が多く住むグレート・スモーキー・マウンテンのグリーンブリア・ヴァレイ北のロカスト・リッジにある田舎の1部屋しかないキャビンに住んでいた[17]

パートンの幼い頃、音楽は重要な役割を果たしていた。祖父ジェイク・ロバート・オウエンズ(1899年-1992年)はペンテコステ派の牧師であり[18]、主な演奏は家族と共に教会で行っていた。
キャリアの始まり

パートンは子供の頃に東部テネシーのラジオやテレビのローカル番組で歌い始めた[19]。8歳の頃、初めてギターを所有した[18]。9歳の頃、テネシー州ノックスビルのラジオ局WIVK-FMとテレビ局WBIR-TVの『キャス・ウォーカー・ショー』に出演した。13歳の頃、ルイジアナの小さなレコード会社ゴールドバンド・レコードでシングル『Puppy Love 』をレコーディングして[18]、テネシー州ナッシュビルの『グランド・オール・オープリー』に出演した。その際ジョニー・キャッシュと初めて会い、自分の才能を信じるように励まされた[20]

1964年、高校を卒業した翌日、東部テネシーからナッシュビルに引っ越した[18]ナッシュビル転居からほどなく、コンバイン・パブリシングと契約して作曲者としての成功でキャリアをスタートさせた[21]。おじであり作曲パートナーであるビル・オウエンズと共に作曲を行ない、ビル・フィリップスの1966年の『Put it Off Until Tomorrow 』とスキーター・デイビスの1967年のヒット曲『Fuel to the Flame 』がトップ10入りするなどいくつかのヒット曲を作り出した。またこの頃のパートンの曲がキティ・ウェルズやハンク・ウィリアムスJRなど多くの他のアーティストによりレコーディングされた[22]。1965年の19歳の頃、バブルガム・ポップ・シンガーとしてマウンテン・レコードと契約した。いくつかのシングルをリリースしたが、唯一『Happy, Happy Birthday Baby 』がチャート入りしたがBillboard Hot 100には入らなかった。カントリーの曲をレコーディングしたいとマウンテン・レコードに訴えたが、パートンの独特な声と強いビブラートはカントリーには合わないとして断られた。

1966年、パートンが作曲しビル・フィリップスが歌った(記載はないがパートンはコーラス参加)『Put It Off Until Tomorrow 』がカントリー・チャートで6位となった。このためマウンテン・レコードはカントリーをレコーディングしたいというパートンの要望を受けいれた。1967年、彼女の最初のカントリーのシングル『Dumb Blonde 』(この頃の彼女の録音曲で他の人が作曲した数少ない曲の1つ)はカントリー音楽チャートで24位となり、同年『Something Fishy 』が17位となった。この2曲は最初のアルバム『Hello, I'm Dolly 』に収録された[23]
結婚

1966年5月30日、カール・トーマス・ディーン(1942年7月20日ナッシュビル生まれ)とジョージア州リングゴールドで結婚した[24][25]。芸名ではディーン姓を名乗っていないが、結婚後のパスポートでは「ドリー・パートン・ディーン」となっており、音楽関連の契約でもディーン姓を名乗ることがある[26]

ナッシュビルでアスファルト舗装の事業を営むディーンはいつも人前に出ることを避け、イベントに彼女と同行することは稀である。パートンによると、夫が彼女の公演を見たのはたった一度だけだという。インタビューによると、二人があまり一緒にいないように見えるのは、単に公の場で夫がいるところを見ている者がいないからである。さらに、しばしば自発的にサプライズを仕掛け、時には彼女に自作の詩を送ることすらあるとして夫のロマンティックな一面を挙げた[27]

夫婦はナッシュビルの自宅で彼女の幼い弟妹たちを何人か育て、甥や姪たちにはパートンのことを「アウント・グラニー」(お婆ちゃん伯母さん)と呼ばせてかわいがっている。「アウント・グラニー」はパートンが経営するドリーウッドのレストランの1つに名付けられた。2人には実子はいないが、パートンはビリー・レイ・サイラスの娘であるマイリー・サイラスの名付け親となった[28]

2011年5月30日に二人は結婚45周年を迎えた。のちにパートンは「私たちは自分たちの結婚に本当に誇りを持っている。互いにとって初婚であり、最後の結婚である」と語った[29]
音楽キャリア
1967年?1975年: カントリー・ミュージックでの成功

1967年、カントリー歌手のポーター・ワゴナーは毎週放送していた自身の番組『ポーター・ワゴナー・ショー』のレギュラー出演と地方巡業への同行のためにパートンを彼の組織に招聘した。1994年の自伝によると[30]、当初、ショーの観客たちの多くはそれまでの出演者ノーマ・ジーンが外されパートンが出演することになったことを不満に思い、しばしばノーマ・ジーンの名前を大声でコールした[31]。ワゴナーのアシストにより、パートンは最終的に受け入れられた。また、ワゴナーは彼の所属するRCAレコードにパートンと契約するよう説得した。RCAは彼女の最初のシングルをまずはワゴナーとのデュエットにすることで投資をおさえることに決めた。1967年終盤に2人の最初のシングルとしてトム・パクストンの『The Last Thing on My Mind 』のカバーが発売され、1968年1月、カントリーのトップ・テンに入り、以降6年間2人のシングルはトップ・テンに入り続けた。

1968年夏、パートンのRCAでの最初のソロ・シングル『Just Because I'm a Woman 』が発売され、緩やかにヒットし、17位となった。その後約10年、ソロではワゴナーとのデュエットほどのヒットはなかった(ただし『In the Good Old Days (When Times Were Bad) 』はのちにスタンダードとなる)。1968年、2人はCMAアワードのボーカル・グループ賞を受賞したが、パートンのソロのレコードは賞を獲れなかった。1969年までにワゴナーは彼女の共同プロデューサーとなり、パートンがビル・オウエンと共に創立した出版社オウ・パーのほぼ半分を所有するなど、パートンの将来を見込んで巨額の投資していた[32]。1970年頃、パートンのソロ活動が成功しないためにパートンとワゴナーは不和となっていった。ワゴナーはパートンにジミー・ロジャースの『Mule Skinner Blues 』のカバーをレコーディングするよう説得した。この曲は3位となり、1971年2月、『Joshua 』で初めてソロとして第1位を獲得した。次の2年間、彼女の代表曲となる『コートはカラフル(Coat of Many Colors)』(1971年、第4位)などの多くのソロのヒット曲、およびデュエット曲を発表した。トップ20にランクインしたシングルは1971年のワゴナーとのデュエット『The Right Combination 』、『Burning the Midnight Oil 』、1972年のワゴナーとのデュエット『Lost Forever in Your Kiss 』、ソロ『Touch Your Woman 』、1973年のソロ『My Tennessee Mountain Home 』、『Travelin' Man 』である[33]

ソロおよびワゴナーとのデュエットはヒットしたが、この頃の最大のヒットは『Jolene 』であった。1973年終盤に発売されたこの曲は1974年2月にカントリー・チャートで第1位となり、Billboard Hot 100にもランクインした。1976年にイギリスで7位となり、これがパートンの最初のイギリスでの成功となった。常にソロ活動を本格化したいと願っていたパートンはワゴナーの組織を離れることを決意した。1974年4月、パートンとワゴナーは最後のデュエットのコンサートを行い、1974年半ば『ポーター・ワゴナー・ショー』を降板した。しかし音楽活動での提携は続き、1975年までワゴナーは彼女のレコードのプロデュースを行なった[30]。アルバムのリリースは続いていたが、1975年の『Say Forever You'll Be Mine 』が2人の最後のデュエット・アルバムとなった[34]


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