ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
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1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。12月、レーニン勲章受章。

1947年 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、ロシア共和国人民芸術家の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。

1948年 、社会主義リアリズム路線に反するとして、アラム・ハチャトゥリアンセルゲイ・プロコフィエフと共に国家によるジダーノフ批判の対象となる。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。

1948年 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。

1949年 オラトリオ「森の歌」作曲・初演。

1950年森の歌」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。

1952年 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。

1953年 交響曲第10番作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員としてオーストリアに派遣される。

1954年 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、ソ連人民芸術家の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、スウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に選出される。

1955年 東ドイツ芸術アカデミーの準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。

1956年 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。

1957年 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。交響曲第11番がレーニン賞受賞。

1958年 オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。

1959年 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。

1960年 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。

1961年 9月、ソビエト共産党員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。交響曲第4番初演(12月30日)。

1962年 交響曲第13番作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、ゴーリキー市で行われたコンサートで「祝典序曲」を指揮。

1963年 ユネスコ国際音楽評議会名誉会員に選出。

1964年 バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。

1965年 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。

1966年 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会金賞受賞。10月、レーニン勲章受章。社会主義労働英雄の称号を授与。

1967年 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。

1968年 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。

1969年 交響曲第14番作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。

1970年 クルガンのサナトリウムで8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。

1971年 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。

1972年 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。

1973年 デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。

1974年 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。

1975年 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「ヴィオラソナタ作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都モスクワの病院にて肺がんで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。

1906年にショスタコーヴィチはペトログラードで誕生した。父はドミートリイ・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチで母はソフィア・ショスタコーヴィチであった[2]。両親が音楽好きなこともあり、ドミトリイは小さい頃から声楽やピアノなどを聴き、また1915年には母に連れられてリムスキー・コルサコフのオペラ「皇帝サルタンの物語」を観劇するなど、音楽に接する時間に恵まれた幼少期を過ごした[3]。やがて母のすすめでピアノを演奏するようになるとまたたく間に上達し、ハイドンの交響曲の緩徐楽章やショパンなどを演奏するようになった[4]

その後、ドミトリイは私立のシドロフスカヤ商業学校に通い、ロシア革命の影響で同校が国有化され1919年に廃校になると、ペトログラードのグリャスセル音楽学校に転校し、アレクサンドラ・ローザノヴァにピアノと作曲を師事した[5]。音楽院への入試対策にあたって両親はドミトリイの作曲の実力を指揮者のアレクサンドル・ジロティに酷評されたことがきっかけとなりアレクサンドル・グラズノフにドミトリイを引き合わせた[6]。このときドミトリイの作品を聴いたグラズノフは「モーツァルト的才能」と評価した[6]

1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノで、ピアノをレオニード・ニコラーエフに、また作曲をマクシミリアン・シテインベルクに師事した[7][8]1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された[9]

1920年代後半からはオペラ「」や「タヒチ・トロット」などを制作したが第一次五カ年計画の成立とプロレタリア音楽家協会の台頭に伴い、ネップ期に流行した軽音楽やジャズなどの音楽が「ブルジョア的である」として弾圧されていくと、ショスタコーヴィチのこれらの作品も批判にさらされた[10]


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