ドミニク・アングル
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顔料バインダーの運用方法もまた多様であり、数百年の隔絶がある巨匠達の作品の研究にも余念がなかった。その研究の成果として、組織的且つ合理的な方法を「保存が完璧」[9]と讃えられる制作と言説によって的確にのこしている[10][11]

他方では、ポスト印象主義者たちやキュビスト現代美術家の根底的な方法やアイデアに決定的な影響を与えており、アングル芸術の影響範囲、射程は底知れないものがある。アングルの作品に対する脚注は、美術作品によるものを含め、未だに途絶えることが無い。アングルの作品とその個性は、同時代の体制派、反体制派の必ずしも芳しくない評価にもかかわらず、影響は非常に甚大で、アングルに先行する画家とアングルに続く画家の代表作にさえ決定的な影響を与えた事例も少なくない[12]。アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えた。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。アングルのその作風は、イタリアのルネサンスの古典を範と仰ぎ絵画制作の基礎を尊重しながらも独自の美意識をもって画面を構成している。『グランド・オダリスク』に登場する観者に背中を向けた裸婦は、冷静に観察すると胴が異常に長く、通常の人体の比例とは全く異なっている。同時代の批評家からは「この女は脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」などと揶揄されたこの作品は、アングルが自然を忠実に模写することよりも、自分の美意識に沿って画面を構成することを重視していたことを示している。こうした「復古的でアカデミックでありながら新しい」態度は、同時代のダヴィッドなどのほか、近現代の画家にも影響を与えた。印象派ドガルノワールをはじめ、アカデミスムとはもっとも無縁と思われるセザンヌマティスピカソらにもその影響を及んでいる。

当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」としてフランス政府に禁止するよう抗議した一方、自らの制作に写真を用いていたことでも知られている。
ギャラリー

『男のトルソ』
1800年
"Etude d un homme nu"

『第1執政官ナポレオン』
1804年
グラン・クルティウス美術館
"Bonaparte, Premier Consul"

玉座のナポレオン
1806年
軍事博物館(パリ・アンヴァリッド
"Napoleon Ier sur le trone imperial"

『スフィンクスの謎を解くオイディプス』
1808年
ルーヴル美術館
"?dipe explique l'enigme du sphinx"

浴女
1808年
ルーヴル美術館
"La Grande Baigneuse"

ジュピターとテティス
1811年
グラネ美術館
"Jupiter et Thetis"

『オシアンの夢』
1813年
アングル美術館[注 1]
"Songe d’Ossian"

『グランド・オダリスク』
1814年
ルーヴル美術館
"La Grande Odalisque"

『ラファエロとフォルナリーナ』
1814年
ルーヴル美術館
"Raphael et la Fornarina"

『アンジェリカを救うルッジェーロ』
1819年
ルーヴル美術館
"Roger delivrant Angelique"

1856年1820年制作開始)
オルセー美術館
"La Source"

ルイ13世の誓願
1824年
モントーバン ノートルダム聖堂
"Le V?u de Louis XIII"

ホメロス礼賛』
1827年
ルーヴル美術館
"L'Apotheose d'Homere"

『ルイ・フランソワ・ベルタン』
1832年
ルーヴル美術館
"Portrait de monsieur Bertin"

奴隷のいるオダリスク
1842年
ウォルターズ美術館


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