ドネルソン砦の戦い
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その回答はこの戦争で最も有名な引用句の一つとなり、グラントの渾名にもなった「無条件降伏」だった[30]

貴方から本日付けで休戦と降伏の条件を決める会合の提案を受け取った。無条件で即座の降参以外の条件は認められない。

私は貴方たちの砦から即座に移動することを提案する。

I am Sir: very respectfully
Your obt. sevt.
U.S. Grant
Brig. Gen. ? [31]

グラントは虚勢を張っているのではなかった。スミス師団は良い陣地におり、砦の外郭線を占領して、翌日には他の師団に支援されて攻撃を掛ける命令を受けていた。グラントはスミスの今の位置がグラントの考えていた包囲戦に先行し、砦をうまく強襲できると考えていた[32]

バックナーは、グラントの「狭量で非騎士道的な条件」に反対したものの、間もなく12,000名ないし15,000名の兵士と48門の大砲と共に降伏した。これはグラントが戦争中に受けた3回の降伏のうち最初のものだった(2回目はビックスバーグの戦いジョン・C・ペンバートンから、3回目はロバート・E・リーの北バージニア軍だった)。バックナーはかなりの量の装備と食料も渡したが、これはグラントの飢えた兵隊が本当に必要とするものだった。7,000名以上の捕虜は最終的にドネルソン砦からシカゴのキャンプ・ダグラスに送られた。その他の者は北部中の他の場所に送られた。バックナーは8月に捕虜交換となるまで、北軍の捕虜として拘束された[33]
戦いの後

ドネルソン砦での損失は南軍大部隊の降伏故に大きなものだった。北軍は2,691名(戦死507名、負傷1,976名、捕虜または不明208名)の損失、南軍は13,846名(戦死327名、負傷1,127名、捕虜または不明12,392名)だった。

この報せに北部では祝砲が撃たれ教会の鐘が鳴らされた。「シカゴ・トリビューン」は、「シカゴは喜びで狂気に揺れた」と書いた。ヘンリー砦とドネルソン砦の占領は南北戦争で北軍最初の意義有る勝利であり、南部の心臓部へ侵略する経路として2つの大河が開けた。グラントは志願兵の少将に昇進し、西部戦線ではヘンリー・ハレックに次ぐ上級将官となった。新聞でグラントが葉巻を歯に挟んで戦闘に勝ったと報じた後で、多くの賞賛者から送られた葉巻で埋まった。アルバート・ジョンストン軍の3分の1近くが捕虜になった。グラントは以前のアメリカの将軍達が束になったよりも多くの兵士を捕虜にした。それによってジョンストン軍は2ヶ月以内に差し迫っていたシャイローの戦いで決定的な優位に立つはずであった12,000名の兵士を奪われた。ジョンストン軍の残りはナッシュビルとコロンバスで200マイル (320 km)離れて位置しており、その間にいるグラント軍が川や鉄道を支配していた。ビューエル将軍の軍隊がナッシュビルを脅かす一方で、ジョン・ポープの軍隊はコロンバスを窺っていた。ジョンストンは2月23日に重要な産業の中心であるナッシュビルを明け渡し、南軍の州都としては最初に北軍の手に落ちた都市となった。コロンバスは3月2日に放棄された。テネシー州はケンタッキー州と同様に北軍の支配下に入った。ただし、両州共に周期的な南軍の襲撃に遭った[34]

戦場跡はアメリカ合衆国国立公園局によって、ドネルソン砦国定戦場として保存されている。
脚注^ Cooling, pp. 12-13; Esposito, text for map 26.
^ Esposito, map 25; Gott, pp. 65, 122; Nevin, p. 79.
^ Nevin, p. 81; Cooling, p. 18; Gott, pp. 121-23.
^ Gott, p. 67; Cooling, pp. 18, 23.
^ McPherson, p. 397.
^ Gott, p. 105.
^ Cooling, p. 20; Gott, p. 136.
^ Esposito, map 26; Gott, pp. 138, 282-85; Nevin, p. 81; Cooling, p. 21.
^ Gott, pp. 117, 180.
^ Eicher, p. 173; Gott, pp. 286-88.
^ Cooling, pp. 5-6; Kennedy, p. 45; Foote, p. 194; Gott, pp. 16-17, 173, 180.
^ Cooling, p. 21; Gott, pp. 144-47; Nevin, p. 81.
^ Gott, pp. 157-64; Cooling, pp. 23-25; Nevin, p. 82; Woodworth, pp. 86-88.
^ Woodworth, pp. 89-90; Gott, pp. 165-66; Cooling, pp. 25-26; Eicher, p. 173.
^ Gott, pp. 171-73.
^ Nevin, p. 82; Gott, pp. 174-75; Woodworth, p. 91.
^ Cooling, pp. 26-27; Nevin, pp. 83-84; Gott, pp. 177-82.
^ Gott, pp. 182-83.
^ Nevin, pp. 84-86; Gott, p. 192; Cooling, pp. 28-29; Woodworth, p. 94.
^ Gott, pp. 191, 201; Cooling, p. 29; Eicher, p. 175.
^ Nevin, pp. 86-87; Gott, pp. 194-203; Cooling, p. 29; Woodworth, p. 96.
^ Gott, pp. 204-17; Cooling, p. 31.
^ Cooling, pp. 31-32; Nevin, pp. 87-90; Gott, pp. 222-24; Eicher, p. 176.
^ Eicher, p. 176; Cooling, p. 31; Nevin, p. 90; Gott, pp. 220-21.
^ Cooling, pp. 32-33; Nevin, p. 90; Gott, pp. 226-31; Woodworth, pp. 108-11.
^ Gott, pp. 231-35; Woodworth, pp. 111-13; Eicher, p. 178; Cooling, pp. 33-34.
^ Eicher, p. 178; Nevin, p. 34.
^ Nevin, p. 93; Gott, pp. 237-40; Woodworth, p. 115; Eicher, p. 178; Cooling, p. 35.
^ Cooling, p. 37; Gott, pp. 240-41, 252-53; Woodworth, p. 116; Nevin, pp. 93-94.
^ Nevin, p. 94; Gott, pp. 254-57.
^ Cooling, p. 36.
^ Esposito, map 29.
^ 降伏した南軍兵士の正式記録は取られておらず、推計も様々である。 Gott, pp. 257-63, 265,は12,392名、 Esposito, map 29は11,500名、 McPherson, p. 402は12,000ないし13,000名、Cooling, p. 38は12,000ないし15,000名、Nevin, p. 97は12,000ないし15,000名、Kennedy, p. 47は15,000名、Woodworth, p. 119は15,000名としている。バックナーは1862年8月15日までボストンのウォーレン砦に戦争捕虜として収監され、ジョージ・A・マッコール准将と捕虜交換された。biography参照。
^ Nevin, p. 96; Gott, pp. 266-67; Esposito, maps 30-31.

関連項目

南北戦争

西部戦線 (南北戦争)

ヘンリー砦の戦い

参考文献

Cooling, Benjamin Franklin, The Campaign for Fort Donelson, U.S. National Park Service and Eastern National, 1999,
ISBN 1-888213-50-7.

Eicher, David J., The Longest Night: A Military History of the Civil War, Simon & Schuster, 2001, ISBN 0-684-84944-5.

Esposito, Vincent J., West Point Atlas of American Wars, Frederick A. Praeger, 1959.

Foote, Shelby, The Civil War, A Narrative: Fort Sumter to Perryville, Random House, 1958, ISBN 0-394-49517-9.

Gott, Kendall D., Where the South Lost the War: An Analysis of the Fort Henry—Fort Donelson Campaign, February 1862, Stackpole books, 2003, ISBN 0-8117-0049-6.

Kennedy, Frances H., Ed., The Civil War Battlefield Guide, 2nd ed., Houghton Mifflin Co., 1998, ISBN 0-395-74012-6.

McPherson, James M., Battle Cry of Freedom: The Civil War Era (Oxford History of the United States), Oxford University Press, 1988, ISBN 0-19-503863-0.

Nevin, David, and the Editors of Time-Life Books, The Road to Shiloh: Early Battles in the West, Time-Life Books, 1983, ISBN 0-8094-4716-9.


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