ドネルソン砦の戦い
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西部戦線の北軍が有名な狼狽させるような反乱者の雄叫びを聞いたのはこの攻撃時が初めだった[20]

この攻撃は、マクナーランド軍の配置がまずかったことと、フォレストが指揮する南軍騎兵隊が時には下馬して側面攻撃したことで、当初は成功だった。北軍リチャード・オグルスビーとジョン・マッカーサー各大佐の旅団が一番激しい攻撃を受けた。彼らは全体に秩序を保ちながら後退し再集合と弾薬の補給を図った。マクラーナンドはルー・ウォーレスに援助を願う伝令を送ったが、ウォーレスは未だ不在のグラントの命令無くして行動することを躊躇した。マクラーナンドの後退は未だ取り乱した潰走の様相までに至っていなかったが、弾薬が尽きかけていた(元補給係将校グラントの軍隊はまだ効率的に供給線を打ち立てることが分かっておらず、余分な弾薬はこれら前線の旅団に即座には供給されなかった)。2人目の伝令がウォーレスの作戦本部に涙ながらに到着し、「我々の右翼は崩壊している。..全軍が危険だ!」と叫んだ。ウォーレスは遂にチャールズ・クラフト大佐の旅団をマクラーナンド軍の救援に向かわせた。クラフトの旅団は前線でオグルスビーとジョン・マッカーサーの旅団と入れ替わったが、側面を襲われていると認識したときには、彼らも後退を始めた[21]

南軍の進撃も全てがうまく行った訳では無かった。午前9時半までに、北軍先頭の旅団が後退したとき、フォレストはブッシュロッド・ジョンソンにこの秩序を乱した敵部隊に総攻撃を掛けるよう促した。ジョンソンはあまりに慎重で全面攻撃を認めなかったが、その歩兵隊が緩り前進し続けることには同意した。戦闘開始から2時間経ち、ピロー将軍はバックナーの翼がピロー軍の横で攻撃していないことに気付いた。2人の将軍の間に意見の衝突が起こった後で、バックナー軍が動きだし、ピロー軍の右翼に合流し、W・H・L・ウォレス大佐の旅団を攻撃した。しかし、このバックナー軍の遅れのために、ルー・ウォーレスはマクナーランド軍が完全に崩壊する前に補強する時間が出来た。南軍の攻勢は午後12時半頃に止まった。この時、北軍のセイヤー大佐の部隊がウィンズフェリー道路に跨って防衛戦を築いた。南軍は3度突撃を掛けたが成功せず、尾根伝いに半マイル (1 km)ほど後退した。それでも良い朝にはなった。南軍は北軍防衛戦線を1ないし2マイル (2-3 km)押し込み、脱出路が開けていた[22]

グラントは明らかに戦闘の音を聞いていなかったが、最終的に副官に知らされた。7マイル (11 km)の凍った道を馬で駆けて、午後1時までにウォーレスの作戦本部に到着し、その混乱振りと自分がいない間の統率者の欠如に落胆した。マクラーナンドは「この軍隊には頭が要る」と不平を漏らした。グラントは「そうかもしれない、紳士諸君、右翼の陣地を奪い返さねばならない」と答えた。しかし、グラントの性格として南軍の突撃にも恐慌を来してはいなかった。グラントは馬で戻ってくる途中で砲声を聞き、その軍隊の士気が落ちているのではないかと推測して、フットに伝令を送って海軍の砲撃による示威行動を始めるよう伝えさせ、それが軍隊の鼓舞に使えるのではないかと考えた。グラントは、南軍のある者(バックナー軍)が3日分の食料を詰めた背嚢を背負って戦っているのを観察し、戦闘での勝利を目指しているのではなく、逃亡を試みているのだと思われた。グラントは副官に向かって、「最初に攻撃する者は勝利を得るだろう。敵が私の前に出てくるなら急いでいるに違いない」と告げた[23]

ピローはその攻撃が午後1時半までに成功し脱出路を開けたと判断したにも拘わらず、さらに前進する前にその部隊を集合させて弾薬を補給すべきと考え、フロイドやバックナーを驚かせたことに、部下に塹壕まで戻るよう命じた。この時点でフロイドは怖じ気づいており、北軍チャールズ・F・スミスの師団が大量に補強されたと信じて、全軍にドネルソン砦の防衛戦の中に戻るよう命じた[24]

グラントは迅速に動いて決断力のないフロイドが残した穴を埋めさせ、スミスに向かって「我が軍右翼の動きは全て失敗した。貴方がドネルソン砦を奪らなければならない」と言った。スミスは「私がやります」と答えた。スミスの2個旅団による反撃は直ぐに、南軍の右翼の外側塹壕線の捕獲に成功した。そこではジョン・W・ヘッド大佐が指揮する第30テネシー連隊がバックナーの師団から置いて行かれていた。南軍は2時間以上も反撃したが、スミスが捕獲した塹壕線を取り戻すことが出来なかった。翌朝明るくなったときに、北軍はドネルソン砦と川向き砲台の両方を包囲する準備ができていた[25]

北軍の右翼で。ルー・ウォーレスが3個旅団の攻撃隊を編成した。1個旅団は彼自身の師団から、1個はマクラーナンド師団から、1個はスミス師団から集めた。スミス師団のモーガン・L・スミス大佐の旅団は、元はウォーレスが指揮していた2個連隊からなり、攻撃の先頭を切るよう選ばれた。クラフトの旅団(ウォーレス師団)とレナード・ロスの旅団(マクラーナンド師団)がその側面の支援に配置された。スミス大佐が葉巻に火を点ける瞬間を待って、ウォーレスが攻撃前進を命じた。スミスの旅団は丘に登る短い距離を前進し、繰り返し走っては地面に伏せて伏射の姿勢を採り、その間ずっと向かい合う南軍のドレーク旅団から届くヤジを聞いていた。ウォーレスの部隊が突撃を掛けてその朝に失った陣地を全て取り戻した。スミス大佐は馬に乗って指揮する連隊の直ぐ後にいて、1発の銃弾が口の近くで加えていた葉巻を吹き飛ばしたが、冷静に新しい葉巻に取り替えた。夜になるまでに南軍は全て当初の陣地に押し戻された。グラントは、ピローが開けた脱出路を閉じることを失念したが、翌朝攻撃を再開する作戦を立て始めた[26]
降伏(2月16日)

両軍共に1,000名近くが戦死し、約3,000名が負傷して戦場に横たわっていた。吹雪の中で凍死した者もおれば、多くの北軍兵士はその毛布や上着を投げ掛けてやっていた[27]

フロイドとピローの両将軍はその日の成果について幾分満足しており、ナッシュビルのジョンストン将軍に大きな勝利を挙げたと電報を打った。しかし、バックナーは、北軍に援軍が到着しているので絶望的な状況はさらに悪くなっていると主張した。2月16日午前1時半、ドーバーホテルでの最後の作戦会議で、バックナーは、もしスミス師団が再度攻撃を掛けてくれば30分しか持たない、砦を守る損失率は75%になると推計すると述べた。バックナーの敗北主義が会議を支配した。大部隊による脱出は難しいであろう。川の輸送船の大半は現在負傷兵をナッシュビルに運んでおり、タイミング良く戻っては来られないだろう[28]

フロイドは間もなく自分が捕虜になって北部の判事と顔を合わせることになると理解し始めた。フロイドはその指揮権をピローに渡したが、ピローもやはり北部の報復を恐れており、指揮権をバックナーにたらい回しし、バックナーが後に残って降伏することに同意した。ピローは夜の間に小さなボートでカンバーランド川を横切って脱出し、フロイドは翌朝、バージニア歩兵2個連隊を乗せた蒸気船で脱出した。フォレストはこのような臆病者を見て嫌気が差し、「私は降伏するためにここに来たのではない」と熱っぽく語って飛び出し、その部隊兵700名と共に去って行った。彼らは浅い凍るようなリック・クリークを抜けてナッシュビルに向かった[29]

2月16日の朝、バックナーはグラントに宛てて休戦と降伏の条件を求める伝言を送った。バックナーはグラントとの以前の関係故にグラントが寛大な条件を提示するものと期待していた。1854年にグラントは飲酒癖のためもあってカリフォルニアでの指揮官職を失い、アメリカ陸軍の士官であったバックナーはグラントが辞任後に家に戻る金を貸したことがあった。しかし、グラントは合衆国に対して反乱を起こした者に何の慈悲も示さなかった。その回答はこの戦争で最も有名な引用句の一つとなり、グラントの渾名にもなった「無条件降伏」だった[30]

貴方から本日付けで休戦と降伏の条件を決める会合の提案を受け取った。無条件で即座の降参以外の条件は認められない。

私は貴方たちの砦から即座に移動することを提案する。

I am Sir: very respectfully
Your obt. sevt.
U.S. Grant
Brig. Gen. ? [31]

グラントは虚勢を張っているのではなかった。スミス師団は良い陣地におり、砦の外郭線を占領して、翌日には他の師団に支援されて攻撃を掛ける命令を受けていた。グラントはスミスの今の位置がグラントの考えていた包囲戦に先行し、砦をうまく強襲できると考えていた[32]

バックナーは、グラントの「狭量で非騎士道的な条件」に反対したものの、間もなく12,000名ないし15,000名の兵士と48門の大砲と共に降伏した。これはグラントが戦争中に受けた3回の降伏のうち最初のものだった(2回目はビックスバーグの戦いジョン・C・ペンバートンから、3回目はロバート・E・リーの北バージニア軍だった)。バックナーはかなりの量の装備と食料も渡したが、これはグラントの飢えた兵隊が本当に必要とするものだった。7,000名以上の捕虜は最終的にドネルソン砦からシカゴのキャンプ・ダグラスに送られた。その他の者は北部中の他の場所に送られた。バックナーは8月に捕虜交換となるまで、北軍の捕虜として拘束された[33]
戦いの後

ドネルソン砦での損失は南軍大部隊の降伏故に大きなものだった。北軍は2,691名(戦死507名、負傷1,976名、捕虜または不明208名)の損失、南軍は13,846名(戦死327名、負傷1,127名、捕虜または不明12,392名)だった。

この報せに北部では祝砲が撃たれ教会の鐘が鳴らされた。「シカゴ・トリビューン」は、「シカゴは喜びで狂気に揺れた」と書いた。ヘンリー砦とドネルソン砦の占領は南北戦争で北軍最初の意義有る勝利であり、南部の心臓部へ侵略する経路として2つの大河が開けた。グラントは志願兵の少将に昇進し、西部戦線ではヘンリー・ハレックに次ぐ上級将官となった。新聞でグラントが葉巻を歯に挟んで戦闘に勝ったと報じた後で、多くの賞賛者から送られた葉巻で埋まった。アルバート・ジョンストン軍の3分の1近くが捕虜になった。グラントは以前のアメリカの将軍達が束になったよりも多くの兵士を捕虜にした。それによってジョンストン軍は2ヶ月以内に差し迫っていたシャイローの戦いで決定的な優位に立つはずであった12,000名の兵士を奪われた。ジョンストン軍の残りはナッシュビルとコロンバスで200マイル (320 km)離れて位置しており、その間にいるグラント軍が川や鉄道を支配していた。ビューエル将軍の軍隊がナッシュビルを脅かす一方で、ジョン・ポープの軍隊はコロンバスを窺っていた。ジョンストンは2月23日に重要な産業の中心であるナッシュビルを明け渡し、南軍の州都としては最初に北軍の手に落ちた都市となった。コロンバスは3月2日に放棄された。テネシー州はケンタッキー州と同様に北軍の支配下に入った。ただし、両州共に周期的な南軍の襲撃に遭った[34]

戦場跡はアメリカ合衆国国立公園局によって、ドネルソン砦国定戦場として保存されている。
脚注^ Cooling, pp. 12-13; Esposito, text for map 26.
^ Esposito, map 25; Gott, pp. 65, 122; Nevin, p. 79.
^ Nevin, p. 81; Cooling, p. 18; Gott, pp. 121-23.
^ Gott, p. 67; Cooling, pp. 18, 23.
^ McPherson, p. 397.
^ Gott, p. 105.


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