ドネルソン砦の戦い
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しかし、実のところ川からの攻撃は単に陽動作戦ではないかと思い、グラント軍よりもビューエル軍からの脅威を心配していた[2]

ジョンストンは、南軍のテネシー州を守るという戦略が見せかけのものであることを暗に認め、防衛線の大半にわたって主導権を放棄する一連の行動を決断した。2月7日、ボウリング・グリーンのコビントンホテルで開かれた作戦会議で、コロンバスにいるボーリガード軍を撤退させ、ボウリング・グリーンも明け渡して、カンバーランド川の南ナッシュビルに移動することで、ケンタッキー州西部を放棄する決断をした。ドネルソン砦の防衛可能性については疑念があったものの、ボーリガードの忠告を容れて、12,000名の補強に同意した。もしそこで敗れれば、テネシー州中部を失うことは避けられず、つまりはナッシュビルという軍需物資の製造と貯蔵のための重要な町も失うことを意味していることを理解していた[3]

ジョンストンはドネルソン砦の指揮を、第一次ブルランの戦いで巧みに功績を挙げたボーリガードに任せたかったが、ボーリガードは喉の病気のために辞退した。その代役として責任はジョン・B・フロイド准将に回った。フロイドはバージニア州西部でロバート・E・リーの下にいて任務をうまく果たせず、西部戦線に到着したばかりだった。以前はジェームズ・ブキャナン政権の陸軍長官を務め、汚職と脱退活動で北部ではお尋ね者になっていた。その経歴は政治家であり軍人では無かったが、カンバーランドでは上級の准将だった[4]ヘンリー砦の戦い、およびドネルソン砦への動き .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  南軍   北軍

北軍側では、ミズーリ方面軍の指揮官としてグラントの上官だったヘンリー・ハレックも危惧の念を抱いていた。グラントがヘンリー砦を占領することを承認したが、続けてドネルソン砦を攻めることは危険のあることだと感じていた。またグラントのそれまでの成功にも拘わらず、グラントのことを向こう見ずと考え、その部下をほとんど信用していなかった。ハレック自身のライバルであるビューエルを説得して、援軍を得る手段としてビューエル軍の参戦を促そうとしたが、ジョンストンがビューエルに大きな注意を払っていたにも拘わらず、グラントが攻撃的なのと同じくらいビューエルは受動的だった。グラントは、その上官がグラントの解任を考えているなどと疑うことは無かったが、この方面作戦を通じて、遅れや敗北の場合にハレックが怖じ気づいて作戦を中止する可能性があることには十分に気付いていた。

2月6日、グラントはハレックに宛てて電報を打った。「ヘンリー砦は我々のものである。...8日にはドネルソン砦を奪取して破壊し、ヘンリー砦に戻る。[5]」この自らに課した最終行は3つの点で楽観的過ぎた。1つはドネルソン砦まで12マイルの惨憺たる道路状態、2つめは溢れてくる洪水の中で物資を運ぶために兵士を使う必要があったこと(2月8日までにヘンリー砦は完全に水に浸かった)[6]、最後はヘンリー砦での砲撃戦でフットの西部船隊が蒙った損傷だった。もしグラントが素早く移動することができたとすれば、その日の内にドネルソン砦を落としていたかもしれない。2月11日の早朝、グラントは作戦会議を開き、幾つかを保留したマクラーナンドを除く全ての将軍がドネルソン砦を攻撃するグラントの作戦を支持した。この作戦会議は南北戦争の間にグラントが開いたものでは最後となった[7]
対戦した戦力

グラントのカイロ地区軍は、ジョン・A・マクラーナンドチャールズ・F・スミスおよびルー・ウォーレス各准将の3個師団で構成された(ウォーレスはヘンリー砦の時まで予備隊の旅団指揮官だったが、2月14日にドネルソンに呼び寄せられドン・カルロス・ビューエル軍から借りた1個旅団を含め蒸気船で到着した援兵を含む新しい師団の編成に携わった。)。歩兵の師団を支援するのは騎兵2個連隊と砲兵8個大隊であり、総勢は25,000名だった。ただし、戦闘の開始時点で使えるのは15,000名だった[8]

ヘンリー・ハレック少将、北軍

ユリシーズ・グラント准将、北軍

アンドリュー・H・フット海軍将官、北軍

ジョン・A・マクラーナンド准将、北軍

チャールズ・F・スミス准将、北軍

ルー・ウォーレス准将、北軍

アルバート・ジョンストン将軍、南軍

P・G・T・ボーリガード将軍、南軍

ジョン・B・フロイド准将、南軍

ギデオン・J・ピロー准将、南軍

サイモン・B・バックナー准将、南軍

ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐、南軍

アメリカ海軍将官アンドリュー・H・フットの指揮する西部船隊は、4隻の鋼製被覆砲艦(旗艦USSセントルイス、USSカロンデレト、USSルイビルおよびUSSピッツバーグ)および3隻の木製被覆砲艦(USSコネストーガ、USSタイラーおよびUSSレキシントン)で構成されていた。USSシンシナティとUSSエセックスはヘンリー砦で損傷を受け、修繕中だった[9]2月14日夜の配置

フロイドの南軍はおよそ17,000名であり、3個師団、守備隊および付設する騎兵隊で構成された。3個師団はフロイド(フロイドが全軍指揮を執ったときはガブリエル・C・ウォートン大佐が代替)、ブッシュロッド・ジョンソンおよびサイモン・B・バックナー各准将が指揮した。その前の1月に短期間砦の指揮を執っていた工兵士官ジョンソンは、戦闘中実質的にギデオン・J・ピロー(グラントの最初の戦闘であるベルモントの戦いで対抗した)に指揮権を奪われていた。ピローは砦の総指揮官だったが上級将軍のフロイドの到着で取って代わられていた。守備隊はジョン・W・ヘッド大佐、騎兵隊はネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐が指揮した[10]

ドネルソン砦は1861年に砦の場所を選んで工事を始めたダニエル・S・ドネルソン准将の名前を付けた。憐れなヘンリー砦よりもかなり手強いものだった。カンバーランド川からは乾いた地盤に約100フィート (30 m)嵩上げされ、攻撃してくる砲艦に対して大砲弾を打ち下ろすことができ、これはヘンリー砦には無かった長所であった。川を向いた大砲は32ポンド滑腔砲10門、6.5インチ(16 cm)施条砲1門、および10インチ (25.4 cm)コロンビヤード砲1門があった。砦とドーバーの小さな町の周りには半円状に3マイル (5 km)の塹壕があった。この塹壕は下を見下ろす尾根の上にあり、前には厚い鉄条網、背面には大砲があった。右翼はバックナーとそのボウリング・グリーン部隊(その一端はヒックマン・クリークに接していた)、左翼にはジョンソンとピローの部隊(その一端はカンバーランド川近くにあった)が入った。これに対する北軍は左翼のスミス隊から右にウォーレス隊(2月14日に到着)、およびマクナーランド隊と並んだ。ピロー隊に面するマクナーランドの右翼は溢れるリック・クリークに届くには兵士が足りず、空いたままになった。南軍前線の中央をぬかるんだインディアン・クリークが走り、この地点は両側から見下ろす大砲で主に守られた[11]
戦闘
初めの動きと攻撃(2月12日-13日)

2月12日、北軍の大半がヘンリー砦を発ち、砦の間を結ぶ2つの主要道路を通って約5マイル (8 km)前進した。その日の大半、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレストの指揮する騎兵哨戒によって遅延させられた。USSカロンデレトが川を遡って真っ先に到着した砲艦であり、砦の防御を試すために多くの砲弾を撃ち込んでから後退した。グラントは2月12日に到着し、前線の左側にあったクリスプ未亡人の家を作戦本部にした[12]

2月13日、南軍防衛軍に対する幾つかの小さな探りの戦闘が行われたが、これは会戦を起こしてはならないというグラントの命令を実質的に無視していた。北軍の左翼では、スミスが3個有る旅団のうちの2個(ジェイコブ・ローマンとジョン・クック各大佐)をその正面の敵の防衛度を試すために派遣した。その攻撃はほとんど損失が無く収穫も無かったが、スミスは夜通し狙撃を続けることができた。右翼では、マクナーランドも承認を得ていない攻撃を命令した。ウィリアム・R・モリソン大佐旅団の2個連隊がW・H・L・ウォレス大佐旅団の第48イリノイ連隊と共に、自分達の陣地を悩ませている砲台(凸角堡No.2)を占領するよう命令された。第48イリノイ連隊の大佐アイシャム・H・ヘイニーはモリソン大佐よりも上級の士官だった。モリソンは当然の権利で3個連隊のうちの2個連隊を指揮していたが、攻撃が進行すれば指揮権を渡すと申し出た。攻撃が始まるとモリソンが負傷して指揮権の曖昧さが無くなったが、どういう訳かヘインズは全軍の指揮を執ることはなく、攻撃は撃退された。


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