ドネルソン砦の戦い
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このことで、翌朝夜明けにスミス師団のジョン・マッカーサー大佐の旅団を予備隊の位置から400ヤード (360 m)の隙間を埋める位置に動かすことで、マクラーナンドの右翼をリック・クリークまで伸ばす十分な兵力ができた[16]ドネルソン砦の川向き砲台の一部、カンバーランド川を見下ろす。

フットが到着するやいなや、グラントは砦の川に向いた砲台を攻撃するよう急き立てた。フットは適切な偵察もせずに進むことに躊躇してはいたが、午後3時までにその砲艦を岸に近付けて、ヘンリー砦でやったのと同じように砲火を開いた。南軍の砲手は砲艦が400ヤード (360 m)の距離に近付くまで待って砲撃を返し、北軍戦隊を散々に叩いた。フットは負傷し(皮肉なことにその足(フット)を負傷した)、旗艦USSセントルイスの操舵室が破壊され、操縦が効かなくなったセントルイスは為す術無く流されて川を降った。USSルイビルも同様に操船できなくなり、USSピッツバーグは浸水し始めた。戦隊の損害は凄まじいものだった。南軍が放った500発の砲弾のうち、59発がセントルイスに、54発がカロンデレトに、36発がルイビルに、20発がピッツバーグに当たった。フットはヘンリー砦の容易な成功の後なので計算違いをしていた。歴史家のケンドール・ゴットは、できるだけ下流に留まり戦隊の長距離射程砲を活かして砦の防御力を減ずるのが賢明な方法だったろうと示唆した。代案として、1863年ビックスバーグ方面作戦の時にうまくいったように、夜に砲台の下を通り過ぎておけばよかったかもしれない。固定した砲台の下を抜けて上流に出てしまえば、ドネルソン砦は防御が出来なくなっていたことであろう[17]

北軍の水夫8名が戦死し44名が負傷したが、南軍の損失は無かった。川向き砲台のジョセフ・ディクソン大尉が前日のカロンデレトの砲撃で戦死していた。しかし、陸の南軍は十分装備を調えた北軍兵に包囲されており、北軍の砲艦が損傷を受けたとしても依然カンバーランド川を制していることに変わりは無かった。グラントはドネルソン砦で成功するとすれば、強い海軍の支援無しに陸の軍隊で行う必要があると認識し、ハレックに宛てて、包囲戦に訴える必要があるかもしれないと電報を打った[18]
突破の試み(2月15日)南軍の突破の試み、2月15日朝北軍の反撃、2月15日午後

南軍の将軍達は予想もしていなかった対海軍戦勝利にも拘わらず、砦での勝利の機会については依然悲観的であり、もう一度深夜の作戦会議を開き、中止した脱出作戦をもう一度やり直すことに決した。2月15日朝、南軍は、北軍戦線の未だ守られていなかったマクラーナンド師団の右翼に対して、ピローによる夜明けの突撃を敢行させた。北軍兵は寒い天候でよく眠れなかったために、全く驚かされたという訳ではなかった。しかし、1人の北軍士官は驚いた。ユリシーズ・グラントである。グラントは自分で始めなければ陸上の戦闘は起こらないと予測し、夜明け前に起きて下流の旗艦にいるフットを訪ねていた。部下の将軍達の誰にも攻撃を開始する命令を伝えておらず、不在時の指揮代行者として誰も指名してもいなかった[19]

南軍の作戦はピローがマクナーランド軍を混乱させ、バックナーがウィンズフェリー道路を横切り、残りの部隊がドネルソン砦を出て東に移動する間に後衛を務めるというものだった。バックナー師団から1個連隊、第30テネシー連隊のみが塹壕に留まり、北軍の追撃を妨害することになっていた。その攻撃は初めうまく行き、2時間の激しい交戦のあとで、ピローの部隊がマクラーナンド軍を押し込み逃走経路が開いた。西部戦線の北軍が有名な狼狽させるような反乱者の雄叫びを聞いたのはこの攻撃時が初めだった[20]

この攻撃は、マクナーランド軍の配置がまずかったことと、フォレストが指揮する南軍騎兵隊が時には下馬して側面攻撃したことで、当初は成功だった。北軍リチャード・オグルスビーとジョン・マッカーサー各大佐の旅団が一番激しい攻撃を受けた。彼らは全体に秩序を保ちながら後退し再集合と弾薬の補給を図った。マクラーナンドはルー・ウォーレスに援助を願う伝令を送ったが、ウォーレスは未だ不在のグラントの命令無くして行動することを躊躇した。マクラーナンドの後退は未だ取り乱した潰走の様相までに至っていなかったが、弾薬が尽きかけていた(元補給係将校グラントの軍隊はまだ効率的に供給線を打ち立てることが分かっておらず、余分な弾薬はこれら前線の旅団に即座には供給されなかった)。2人目の伝令がウォーレスの作戦本部に涙ながらに到着し、「我々の右翼は崩壊している。..全軍が危険だ!」と叫んだ。ウォーレスは遂にチャールズ・クラフト大佐の旅団をマクラーナンド軍の救援に向かわせた。クラフトの旅団は前線でオグルスビーとジョン・マッカーサーの旅団と入れ替わったが、側面を襲われていると認識したときには、彼らも後退を始めた[21]

南軍の進撃も全てがうまく行った訳では無かった。午前9時半までに、北軍先頭の旅団が後退したとき、フォレストはブッシュロッド・ジョンソンにこの秩序を乱した敵部隊に総攻撃を掛けるよう促した。ジョンソンはあまりに慎重で全面攻撃を認めなかったが、その歩兵隊が緩り前進し続けることには同意した。戦闘開始から2時間経ち、ピロー将軍はバックナーの翼がピロー軍の横で攻撃していないことに気付いた。2人の将軍の間に意見の衝突が起こった後で、バックナー軍が動きだし、ピロー軍の右翼に合流し、W・H・L・ウォレス大佐の旅団を攻撃した。しかし、このバックナー軍の遅れのために、ルー・ウォーレスはマクナーランド軍が完全に崩壊する前に補強する時間が出来た。南軍の攻勢は午後12時半頃に止まった。この時、北軍のセイヤー大佐の部隊がウィンズフェリー道路に跨って防衛戦を築いた。南軍は3度突撃を掛けたが成功せず、尾根伝いに半マイル (1 km)ほど後退した。それでも良い朝にはなった。南軍は北軍防衛戦線を1ないし2マイル (2-3 km)押し込み、脱出路が開けていた[22]

グラントは明らかに戦闘の音を聞いていなかったが、最終的に副官に知らされた。7マイル (11 km)の凍った道を馬で駆けて、午後1時までにウォーレスの作戦本部に到着し、その混乱振りと自分がいない間の統率者の欠如に落胆した。マクラーナンドは「この軍隊には頭が要る」と不平を漏らした。グラントは「そうかもしれない、紳士諸君、右翼の陣地を奪い返さねばならない」と答えた。しかし、グラントの性格として南軍の突撃にも恐慌を来してはいなかった。グラントは馬で戻ってくる途中で砲声を聞き、その軍隊の士気が落ちているのではないかと推測して、フットに伝令を送って海軍の砲撃による示威行動を始めるよう伝えさせ、それが軍隊の鼓舞に使えるのではないかと考えた。グラントは、南軍のある者(バックナー軍)が3日分の食料を詰めた背嚢を背負って戦っているのを観察し、戦闘での勝利を目指しているのではなく、逃亡を試みているのだと思われた。グラントは副官に向かって、「最初に攻撃する者は勝利を得るだろう。敵が私の前に出てくるなら急いでいるに違いない」と告げた[23]

ピローはその攻撃が午後1時半までに成功し脱出路を開けたと判断したにも拘わらず、さらに前進する前にその部隊を集合させて弾薬を補給すべきと考え、フロイドやバックナーを驚かせたことに、部下に塹壕まで戻るよう命じた。この時点でフロイドは怖じ気づいており、北軍チャールズ・F・スミスの師団が大量に補強されたと信じて、全軍にドネルソン砦の防衛戦の中に戻るよう命じた[24]

グラントは迅速に動いて決断力のないフロイドが残した穴を埋めさせ、スミスに向かって「我が軍右翼の動きは全て失敗した。貴方がドネルソン砦を奪らなければならない」と言った。スミスは「私がやります」と答えた。スミスの2個旅団による反撃は直ぐに、南軍の右翼の外側塹壕線の捕獲に成功した。そこではジョン・W・ヘッド大佐が指揮する第30テネシー連隊がバックナーの師団から置いて行かれていた。南軍は2時間以上も反撃したが、スミスが捕獲した塹壕線を取り戻すことが出来なかった。翌朝明るくなったときに、北軍はドネルソン砦と川向き砲台の両方を包囲する準備ができていた[25]

北軍の右翼で。ルー・ウォーレスが3個旅団の攻撃隊を編成した。1個旅団は彼自身の師団から、1個はマクラーナンド師団から、1個はスミス師団から集めた。スミス師団のモーガン・L・スミス大佐の旅団は、元はウォーレスが指揮していた2個連隊からなり、攻撃の先頭を切るよう選ばれた。クラフトの旅団(ウォーレス師団)とレナード・ロスの旅団(マクラーナンド師団)がその側面の支援に配置された。スミス大佐が葉巻に火を点ける瞬間を待って、ウォーレスが攻撃前進を命じた。スミスの旅団は丘に登る短い距離を前進し、繰り返し走っては地面に伏せて伏射の姿勢を採り、その間ずっと向かい合う南軍のドレーク旅団から届くヤジを聞いていた。ウォーレスの部隊が突撃を掛けてその朝に失った陣地を全て取り戻した。スミス大佐は馬に乗って指揮する連隊の直ぐ後にいて、1発の銃弾が口の近くで加えていた葉巻を吹き飛ばしたが、冷静に新しい葉巻に取り替えた。夜になるまでに南軍は全て当初の陣地に押し戻された。グラントは、ピローが開けた脱出路を閉じることを失念したが、翌朝攻撃を再開する作戦を立て始めた[26]
降伏(2月16日)

両軍共に1,000名近くが戦死し、約3,000名が負傷して戦場に横たわっていた。吹雪の中で凍死した者もおれば、多くの北軍兵士はその毛布や上着を投げ掛けてやっていた[27]

フロイドとピローの両将軍はその日の成果について幾分満足しており、ナッシュビルのジョンストン将軍に大きな勝利を挙げたと電報を打った。しかし、バックナーは、北軍に援軍が到着しているので絶望的な状況はさらに悪くなっていると主張した。2月16日午前1時半、ドーバーホテルでの最後の作戦会議で、バックナーは、もしスミス師団が再度攻撃を掛けてくれば30分しか持たない、砦を守る損失率は75%になると推計すると述べた。バックナーの敗北主義が会議を支配した。大部隊による脱出は難しいであろう。川の輸送船の大半は現在負傷兵をナッシュビルに運んでおり、タイミング良く戻っては来られないだろう[28]

フロイドは間もなく自分が捕虜になって北部の判事と顔を合わせることになると理解し始めた。フロイドはその指揮権をピローに渡したが、ピローもやはり北部の報復を恐れており、指揮権をバックナーにたらい回しし、バックナーが後に残って降伏することに同意した。ピローは夜の間に小さなボートでカンバーランド川を横切って脱出し、フロイドは翌朝、バージニア歩兵2個連隊を乗せた蒸気船で脱出した。フォレストはこのような臆病者を見て嫌気が差し、「私は降伏するためにここに来たのではない」と熱っぽく語って飛び出し、その部隊兵700名と共に去って行った。彼らは浅い凍るようなリック・クリークを抜けてナッシュビルに向かった[29]

2月16日の朝、バックナーはグラントに宛てて休戦と降伏の条件を求める伝言を送った。バックナーはグラントとの以前の関係故にグラントが寛大な条件を提示するものと期待していた。1854年にグラントは飲酒癖のためもあってカリフォルニアでの指揮官職を失い、アメリカ陸軍の士官であったバックナーはグラントが辞任後に家に戻る金を貸したことがあった。しかし、グラントは合衆国に対して反乱を起こした者に何の慈悲も示さなかった。その回答はこの戦争で最も有名な引用句の一つとなり、グラントの渾名にもなった「無条件降伏」だった[30]

貴方から本日付けで休戦と降伏の条件を決める会合の提案を受け取った。無条件で即座の降参以外の条件は認められない。

私は貴方たちの砦から即座に移動することを提案する。

I am Sir: very respectfully
Your obt. sevt.
U.S. Grant
Brig. Gen. ? [31]

グラントは虚勢を張っているのではなかった。スミス師団は良い陣地におり、砦の外郭線を占領して、翌日には他の師団に支援されて攻撃を掛ける命令を受けていた。グラントはスミスの今の位置がグラントの考えていた包囲戦に先行し、砦をうまく強襲できると考えていた[32]

バックナーは、グラントの「狭量で非騎士道的な条件」に反対したものの、間もなく12,000名ないし15,000名の兵士と48門の大砲と共に降伏した。


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