ドネルソン砦の戦い
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アルバート・ジョンストン将軍、南軍

P・G・T・ボーリガード将軍、南軍

ジョン・B・フロイド准将、南軍

ギデオン・J・ピロー准将、南軍

サイモン・B・バックナー准将、南軍

ネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐、南軍

アメリカ海軍将官アンドリュー・H・フットの指揮する西部船隊は、4隻の鋼製被覆砲艦(旗艦USSセントルイス、USSカロンデレト、USSルイビルおよびUSSピッツバーグ)および3隻の木製被覆砲艦(USSコネストーガ、USSタイラーおよびUSSレキシントン)で構成されていた。USSシンシナティとUSSエセックスはヘンリー砦で損傷を受け、修繕中だった[9]2月14日夜の配置

フロイドの南軍はおよそ17,000名であり、3個師団、守備隊および付設する騎兵隊で構成された。3個師団はフロイド(フロイドが全軍指揮を執ったときはガブリエル・C・ウォートン大佐が代替)、ブッシュロッド・ジョンソンおよびサイモン・B・バックナー各准将が指揮した。その前の1月に短期間砦の指揮を執っていた工兵士官ジョンソンは、戦闘中実質的にギデオン・J・ピロー(グラントの最初の戦闘であるベルモントの戦いで対抗した)に指揮権を奪われていた。ピローは砦の総指揮官だったが上級将軍のフロイドの到着で取って代わられていた。守備隊はジョン・W・ヘッド大佐、騎兵隊はネイサン・ベッドフォード・フォレスト大佐が指揮した[10]

ドネルソン砦は1861年に砦の場所を選んで工事を始めたダニエル・S・ドネルソン准将の名前を付けた。憐れなヘンリー砦よりもかなり手強いものだった。カンバーランド川からは乾いた地盤に約100フィート (30 m)嵩上げされ、攻撃してくる砲艦に対して大砲弾を打ち下ろすことができ、これはヘンリー砦には無かった長所であった。川を向いた大砲は32ポンド滑腔砲10門、6.5インチ(16 cm)施条砲1門、および10インチ (25.4 cm)コロンビヤード砲1門があった。砦とドーバーの小さな町の周りには半円状に3マイル (5 km)の塹壕があった。この塹壕は下を見下ろす尾根の上にあり、前には厚い鉄条網、背面には大砲があった。右翼はバックナーとそのボウリング・グリーン部隊(その一端はヒックマン・クリークに接していた)、左翼にはジョンソンとピローの部隊(その一端はカンバーランド川近くにあった)が入った。これに対する北軍は左翼のスミス隊から右にウォーレス隊(2月14日に到着)、およびマクナーランド隊と並んだ。ピロー隊に面するマクナーランドの右翼は溢れるリック・クリークに届くには兵士が足りず、空いたままになった。南軍前線の中央をぬかるんだインディアン・クリークが走り、この地点は両側から見下ろす大砲で主に守られた[11]
戦闘
初めの動きと攻撃(2月12日-13日)

2月12日、北軍の大半がヘンリー砦を発ち、砦の間を結ぶ2つの主要道路を通って約5マイル (8 km)前進した。その日の大半、南軍ネイサン・ベッドフォード・フォレストの指揮する騎兵哨戒によって遅延させられた。USSカロンデレトが川を遡って真っ先に到着した砲艦であり、砦の防御を試すために多くの砲弾を撃ち込んでから後退した。グラントは2月12日に到着し、前線の左側にあったクリスプ未亡人の家を作戦本部にした[12]

2月13日、南軍防衛軍に対する幾つかの小さな探りの戦闘が行われたが、これは会戦を起こしてはならないというグラントの命令を実質的に無視していた。北軍の左翼では、スミスが3個有る旅団のうちの2個(ジェイコブ・ローマンとジョン・クック各大佐)をその正面の敵の防衛度を試すために派遣した。その攻撃はほとんど損失が無く収穫も無かったが、スミスは夜通し狙撃を続けることができた。右翼では、マクナーランドも承認を得ていない攻撃を命令した。ウィリアム・R・モリソン大佐旅団の2個連隊がW・H・L・ウォレス大佐旅団の第48イリノイ連隊と共に、自分達の陣地を悩ませている砲台(凸角堡No.2)を占領するよう命令された。第48イリノイ連隊の大佐アイシャム・H・ヘイニーはモリソン大佐よりも上級の士官だった。モリソンは当然の権利で3個連隊のうちの2個連隊を指揮していたが、攻撃が進行すれば指揮権を渡すと申し出た。攻撃が始まるとモリソンが負傷して指揮権の曖昧さが無くなったが、どういう訳かヘインズは全軍の指揮を執ることはなく、攻撃は撃退された。前線の間に残された負傷兵の中には砲撃で火が付いた草によって生きながら燃やされた者もいた[13]

方面作戦のこの時点まで天候は雨模様が続いたが、2月13日には吹雪が吹き、強い風で気温は 10〜12°F(−12℃) まで下降し、翌朝には 3インチ (8 cm) の積雪があった。大砲や荷馬車は地に凍り付いた。両軍の前線が接近しており、活動的な狙撃兵の存在もあったので、兵士達は暖を採ったり食事を作るための火を点けることができず、毛布やコートも持たずに到着した者が多かったので、両軍共にその夜は惨めな姿になった[14]
補強および海軍の戦い(2月14日)

2月14日午前1時、フロイドはその作戦本部であるドーバーホテルで作戦会議を開き、ドネルソン砦は恐らく攻撃に耐えられないということで全体が一致した。ピロー将軍は突破の試みを率いることになった。部隊は戦線の後方に動き突撃の備えをしたが、まさに動こうという時に北軍の狙撃手がピローの副官を殺した。ピローは戦闘に置いて通常は攻撃的な性格だったが自信を無くし、彼らの動きが見破られているので突破は延期しなければならないと宣言した。フロイドはこの計画変更に怒ったが、その時は実行するタイミングとしては遅すぎた[15]

2月14日にはまた、ヘンリー砦から北軍のルー・ウォーレス将軍の旅団が正午頃に到着し、フットの船隊も6隻の砲艦と12隻の輸送船に乗せた10,000名の増援を連れて到着した。ウォーレスはこの新しい部隊をジョン・M・セイヤーとチャールズ・クラフト両大佐の2個旅団からなる第3の師団を編成し、南軍の塹壕に面する前線の中央を占めさせた。このことで、翌朝夜明けにスミス師団のジョン・マッカーサー大佐の旅団を予備隊の位置から400ヤード (360 m)の隙間を埋める位置に動かすことで、マクラーナンドの右翼をリック・クリークまで伸ばす十分な兵力ができた[16]ドネルソン砦の川向き砲台の一部、カンバーランド川を見下ろす。

フットが到着するやいなや、グラントは砦の川に向いた砲台を攻撃するよう急き立てた。フットは適切な偵察もせずに進むことに躊躇してはいたが、午後3時までにその砲艦を岸に近付けて、ヘンリー砦でやったのと同じように砲火を開いた。南軍の砲手は砲艦が400ヤード (360 m)の距離に近付くまで待って砲撃を返し、北軍戦隊を散々に叩いた。フットは負傷し(皮肉なことにその足(フット)を負傷した)、旗艦USSセントルイスの操舵室が破壊され、操縦が効かなくなったセントルイスは為す術無く流されて川を降った。USSルイビルも同様に操船できなくなり、USSピッツバーグは浸水し始めた。戦隊の損害は凄まじいものだった。南軍が放った500発の砲弾のうち、59発がセントルイスに、54発がカロンデレトに、36発がルイビルに、20発がピッツバーグに当たった。フットはヘンリー砦の容易な成功の後なので計算違いをしていた。歴史家のケンドール・ゴットは、できるだけ下流に留まり戦隊の長距離射程砲を活かして砦の防御力を減ずるのが賢明な方法だったろうと示唆した。代案として、1863年ビックスバーグ方面作戦の時にうまくいったように、夜に砲台の下を通り過ぎておけばよかったかもしれない。固定した砲台の下を抜けて上流に出てしまえば、ドネルソン砦は防御が出来なくなっていたことであろう[17]

北軍の水夫8名が戦死し44名が負傷したが、南軍の損失は無かった。川向き砲台のジョセフ・ディクソン大尉が前日のカロンデレトの砲撃で戦死していた。しかし、陸の南軍は十分装備を調えた北軍兵に包囲されており、北軍の砲艦が損傷を受けたとしても依然カンバーランド川を制していることに変わりは無かった。グラントはドネルソン砦で成功するとすれば、強い海軍の支援無しに陸の軍隊で行う必要があると認識し、ハレックに宛てて、包囲戦に訴える必要があるかもしれないと電報を打った[18]
突破の試み(2月15日)南軍の突破の試み、2月15日朝北軍の反撃、2月15日午後

南軍の将軍達は予想もしていなかった対海軍戦勝利にも拘わらず、砦での勝利の機会については依然悲観的であり、もう一度深夜の作戦会議を開き、中止した脱出作戦をもう一度やり直すことに決した。2月15日朝、南軍は、北軍戦線の未だ守られていなかったマクラーナンド師団の右翼に対して、ピローによる夜明けの突撃を敢行させた。北軍兵は寒い天候でよく眠れなかったために、全く驚かされたという訳ではなかった。しかし、1人の北軍士官は驚いた。ユリシーズ・グラントである。グラントは自分で始めなければ陸上の戦闘は起こらないと予測し、夜明け前に起きて下流の旗艦にいるフットを訪ねていた。部下の将軍達の誰にも攻撃を開始する命令を伝えておらず、不在時の指揮代行者として誰も指名してもいなかった[19]

南軍の作戦はピローがマクナーランド軍を混乱させ、バックナーがウィンズフェリー道路を横切り、残りの部隊がドネルソン砦を出て東に移動する間に後衛を務めるというものだった。バックナー師団から1個連隊、第30テネシー連隊のみが塹壕に留まり、北軍の追撃を妨害することになっていた。その攻撃は初めうまく行き、2時間の激しい交戦のあとで、ピローの部隊がマクラーナンド軍を押し込み逃走経路が開いた。西部戦線の北軍が有名な狼狽させるような反乱者の雄叫びを聞いたのはこの攻撃時が初めだった[20]

この攻撃は、マクナーランド軍の配置がまずかったことと、フォレストが指揮する南軍騎兵隊が時には下馬して側面攻撃したことで、当初は成功だった。北軍リチャード・オグルスビーとジョン・マッカーサー各大佐の旅団が一番激しい攻撃を受けた。彼らは全体に秩序を保ちながら後退し再集合と弾薬の補給を図った。マクラーナンドはルー・ウォーレスに援助を願う伝令を送ったが、ウォーレスは未だ不在のグラントの命令無くして行動することを躊躇した。マクラーナンドの後退は未だ取り乱した潰走の様相までに至っていなかったが、弾薬が尽きかけていた(元補給係将校グラントの軍隊はまだ効率的に供給線を打ち立てることが分かっておらず、余分な弾薬はこれら前線の旅団に即座には供給されなかった)。2人目の伝令がウォーレスの作戦本部に涙ながらに到着し、「我々の右翼は崩壊している。..全軍が危険だ!」と叫んだ。ウォーレスは遂にチャールズ・クラフト大佐の旅団をマクラーナンド軍の救援に向かわせた。クラフトの旅団は前線でオグルスビーとジョン・マッカーサーの旅団と入れ替わったが、側面を襲われていると認識したときには、彼らも後退を始めた[21]


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