ドナ・サマー
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1968年ミュージカルヘアー」のヨーロッパ公演でデビュー、1971年にファーストシングル、1974年にファーストアルバムを発表した[2]

1970年代ジョルジオ・モロダーのプロデュースにより、ディスコ・ミュージックの第一人者として活躍し「ディスコの女王」(Queen of Disco)と呼ばれ、一世を風靡した[1]。70年代後半のディスコではシルヴェスター、ヴィレッジ・ピープルらの「ゲイ・ディスコ」が人気となっていた。アメリカのディスコの客は黒人とゲイが多かったが、ゲイの男性から特に支持されていたのが、ドナ・サマーである。他にゲイの男性を中心として、グロリア・ゲイナーダイアナ・ロス、メルバ・ムーア、ロリータ・ハロウェイらもディスコの女王という見方をされた。彼女は、75年から80年にかけて「ホット・スタッフ」「愛の誘惑」「アイ・フィール・ラブ」「マッカーサー・パーク」「バッド・ガール」「ワンダラー」「ラスト・ダンス」「ヘブン・ノウズ」「オン・ザ・レイディオ」「ディム・オール・ザ・ライト」 などのヒットを放った。81年は不調だったが、その後も「ラブ・イズ・イン・コントロール」(1982)「情熱物語」(1983)をヒットさせている。84年から88年にかけては、はっきり低迷状態となり、過去の人扱いされた。しかしサマーは「イッツ・フォー・リアル」(1989)のカム・バック・ヒットを放つことができた。

1980年デヴィッド・ゲフィン率いるゲフィン・レコードへ古巣のカサブランカ・レコードから移籍。その後、彼女が「AIDSゲイに対する天罰である」と発言したとされ、ゲイのファンも多かった[3]ために反感を買った[4][5]。1980年代中盤の間、サマーの広報はデマについての否定声明を数回に渡って出し、レコード業界とゲイ・コミュニティの一部が彼女を支え続けた。サマー自身はこの件について沈黙を続け、彼女が直接言及するのは数年後のことだった。1989年に雑誌アドボケートのインタビューに答え、自分のキャリアはオープンゲイの多くのスタッフと共に築いてきたし、ゲイを理由に彼らを批難したことは一度も無いと述べ、「私は性的指向で人を見たりしない。ゲイかストレートかで人を判断したりしない。私の愛は人としての思いやりから成っている。」と述べた。またハフィントン・ポストの記事においても、サマーがアンチ・ゲイとのレッテルを拒否したことが明らかになっている[6]Washington DCのコンベンション・センターでのドナ(1985年)

1990年代から2000年代にかけては目立ったヒット曲はないが、元祖ディスコクイーンたる由縁か、ビルボードのダンスまたはクラブ・チャートにおいてトップ10入りする常連であった。1992年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得した[7]

2008年5月に9年ぶり(オリジナルアルバムとしては17年ぶり)となる『Crayons』を発表、ここからのシングル3曲「I'm a Fire」「Stamp Your Feet」「Fame (The Game)」そして「To Paris With Love」が2008年から2010年にかけて4曲連続でビルボードのダンス・チャートで1位を記録。「To Paris With Love」は、彼女にとってビルボードの各シングル・チャートにおける通算22曲目の1位となった。

2012年5月17日朝、フロリダ州ネイプルズで、肺がんのため死去。享年63歳。なお、彼女は喫煙者ではなかった。

2013年に、ロックの殿堂入りを果たした。授賞式ではケリー・ローランドがプレゼンターを務め、彼女の家族が受賞し、ジェニファー・ハドソンが「バッド・ガール」「ラスト・ダンス」のカバーを披露した。

なお、サマーは有名になる前、約8年間ドイツを中心にヨーロッパで歌手活動をしていたため、ドイツ語が堪能であった。

1991年に来日公演した時に彼女の髪が金髪だったのは、その年にリリースされたアルバム"Mistaken Identity"のジャケット撮影の直後にその公演が行われたため(そのアルバムのジャケットで彼女は“人違い”の意のタイトルに因んで金髪であった)。よってあの金髪は かつらではなく、染めた地毛であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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